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多賀城海軍工廠
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多賀城海軍工廠(たがじょうかいぐんこうしょう)とは、宮城県多賀城市にあった日本の海軍工廠。東北唯一の海軍の工場である。現在は工廠跡地の一部が陸上自衛隊多賀城駐屯地になっている。[1]
概要
日本が中国との全面戦争(日中戦争)に突入後、海軍省が戦争による軍需の増大と積極的な生産力拡充政策によって国内の海軍工廠増設の計画を具体化したことが本工廠の設置に繋がったと考えられる。そのため本工廠は航空機用機銃、同弾薬包及び爆弾製造専門工場として設置された。[2]また、多賀城村に設置された理由としては、東北の人的資源が豊富であり、安価な土地が入手可能で、陸海交通の便がよいこと、船岡に海軍第一火薬廠を控えているなどの地理的要因と、昭和9・10年の冷害(東北凶作)により疲弊が著しい東北地方を振興する必要があるという経済的要因があったためとされている[3]。
沿革
年表
- 1938年(昭和13年)、柴田郡船岡村(現:柴田町)と多賀城村(現:多賀城市)内の現地調査が行われる。
- 1939年(昭和14年)8月1日、海軍火薬工廠船岡支所(後の海軍第一火薬廠)が開庁する。
- 1941年(昭和16年)、多賀城村の再調査が行われ、海軍工廠建設計画が決定されたとされる。
- 1942年(昭和17年)7月、建設工事が開始される[4]。
- 1943年(昭和18年)10月1日、開庁する。
- 1945年(昭和20年)8月15日、終戦する。
- 同9月2日、現状維持のまま占領軍(米軍)の管理下に入り、米軍第14軍団第11空挺師団188連隊が駐屯地(キャンプ・ローパー/Camp Loper)として進駐する[5]。
- 1949年(昭和24年)、第11空挺師団が撤退する[6]と同時に、用地全てが大蔵省に返還される[1]。
- 1954年(昭和29年)、火工部跡地の多くが陸上自衛隊多賀城駐屯地となる[7]。
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歴代工廠長
設備
要約
視点
施設能力
本工廠の生産目標は以下のとおり[2]。(しかし、実際には資源不足などの影響でほとんど達成できなかったと考えられる。)
組織[1]
施設
- 敷地 4,961,600㎡
- 建物 2,024棟
南地区
北地区
砂押川以北を指す。主に火工部が設置されていた。また、付属施設としての官舎・会議所、工員住宅、男子工員寄宿舎もあった[1]。
以下、多賀城海軍工廠引渡目録に記載されている施設
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参考文献
- 多賀城市文化財調査報告書第124集「旧多賀城海軍工廠の調査」、多賀城市教育委員会編集、多賀城市文化遺産活用活性化実行委員会発行、2015年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻〈将官履歴上〉、第10巻〈将官履歴下〉、第一法規出版、1995年。
関連項目
脚注
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