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大久保忠重 (旗本)
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大久保忠重(おおくぼ ただしげ)は、大久保玄蕃知行所の2代目領主、上級旗本。通称は四郎左衛門。
父・忠成から5000石を相続し、天和2年(1682年)に79歳で亡くなる。寛文10年(1670年)に家を継いだ時は67歳で、元和8年(1622年)から寛文元年(1661年)までの40年間は空白期間となっている[2]。
歴代大久保玄蕃家では珍しく、官位を持ったとの記録は無い[2]。
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生涯
- 慶長9年(1604年)生まれる
- 元和4年(1618年)2代将軍・徳川秀忠に御目見。この時15歳
- 元和8年(1622年)書院番士になり、のちに小姓組の番士になる
- 寛文元年(1661年)
- 寛文3年(1663年)
- 4月 4代将軍・徳川家綱が日光詣りをするときに供奉。
- 寛文8年(1668年)
- 7月11日 槍奉行
- 寛文10年(1670年)
- 10月23日 家督を継ぐ
- 寛文12年(1672年)
- 閏6月28日 旗奉行
- 延宝3(1675年)
- 12月14日 引退する
- 天和2年(1682年)
- 9月22日 亡くなる。享年79
※上記年表は『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、P400)を参照に作成した。
知行所の出来事
寛文10年(1670年)、駿河国益津郡内の大久保玄蕃頭領(方之上村、中里村、中村、小浜村、花沢村、馬場村、坂本村)と長崎弥左衛門領の農民が、東海道の丸子宿への助馬(助郷)の役が遠くて難儀との願書[3]を奉行に対して出している。
丸子まで4里ほど離れていて、間に日本坂という山の難所があり、それを越えて前日から丸子で待機し、当日役を勤めたら、その夜も丸子に泊まり、合計3日かかるという。
脚注
参考文献
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