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大倉千代子

日本の女優 ウィキペディアから

大倉千代子
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大倉 千代子(おおくら ちよこ、1915年8月31日 - 没年不明)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6]。本名坂間 喜代子(さかま きよこ)、旧芸名秋月 弘子(あきづき ひろこ)、月浦 かすみ(つきうら かすみ)[3][4][5][6]溝口健二監督の『虞美人草』(1935年)、坂根田鶴子の初監督作『初姿』(1936年)で知られる[2]

概要 おおくら ちよこ 大倉 千代子, 本名 ...
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人物・来歴

要約
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1915年(大正4年)8月31日東京府東京市芝区新堀町(現在の東京都港区3丁目)に生まれる[5][6]

旧制小学校を経て、満10歳になる1925年(大正14年)、松竹蒲田撮影所を辞した五月信子(1894年 - 1959年)と高橋義信の夫妻が主宰する「近代座[7]に参加する[6]。舞台では『高橋お傳』、『奈津子の母』、『嬰児殺し』、『女給』に出演した[6]

当時、座長の五月は、帝国キネマ演芸の製作・配給する映画にも出演しており[8]、1930年(昭和5年)には、東京・大森の発声映画社が製作したトーキー仮名屋小梅』に、五月・高橋夫妻とともに出演、同年1月7日に公開された記録がある[9]。このときの芸名は「月浦 かすみ」、満14歳であり、これがもっとも古い映画出演記録である[2][3][4]。翌1931年(昭和6年)6月17日には、帝国キネマ演芸製作・配給、押本七之助監督によるサイレント映画一心太助』に「秋月 弘子」の名で出演している[4]。1932年(昭和7年)、帝国キネマ演芸は新興キネマに改組したが、大倉は、満州国巡業を最後に「近代座」を退団、引き続き新興キネマが配給する、尾上菊太郎プロダクション製作のサイレント作品に出演する[3][4][6]

1933年(昭和8年)には、日活太秦撮影所(のちの日活京都撮影所と同一)に移籍、「大倉 千代子」と改名して、山中貞雄監督の『盤嶽の一生』に出演、同作は同年6月15日公開に公開された[2]。1934年(昭和9年)8月に永田雅一が設立した第一映画に移籍、数作に出演したが、なかでも1935年(昭和10年)10月31日に公開された溝口健二監督の『虞美人草』では「小夜子」役を演じ、降板した山田五十鈴の代役を務め、溝口の弟子の女性監督・坂根田鶴子の初監督作『初姿』では主役に抜擢され、同作は翌年3月5日に公開されている[2]

1936年(昭和11年)6月ころには、マキノ正博によるトーキー専門の新しい映画会社、マキノトーキー製作所に移籍している(第二期入社)[2]。同社も翌1937年(昭和12年)4月には解散に至り、團徳麿志村喬らとともに、日活京都撮影所に移籍した[2][10]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となるが、大映には出演記録がない[2]。翌1943年(昭和18年)4月には、「日活座」なる舞台実演が京都・「南座」で行われ、四代目澤村國太郎月宮乙女尾上菊太郎らとともに出演している[11]。この時点で満27歳であった。

大倉のメインの活動時期である1930年代、当時人気の横綱だった双葉山定次と結婚の噂が存在したが、ロマンスが存在したかどうかは定かではない[12][13]。1936年1月に発行された雑誌『野球界』臨時増刊・春場所相撲号(第26巻第2号)にも、この件についての報道はされた[14]。双葉山は、1939年(昭和14年)4月29日に大阪の一般女性と結婚している[13]

第二次世界大戦後、1954年(昭和29年)に2本の映画出演記録があり、この公開時点で大倉は満38歳であった[2]。1975年(昭和50年)8月に発行された『週刊読売』に掲載された座談会『戦時中の青春、そして30年後のいま』に、還暦を迎えた健在な姿を見せたが[15]、以降の消息は定かではない。

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フィルモグラフィ

要約
視点

すべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[2][3][4]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[16]

新興キネマ

基調は新興キネマ配給作品だが、製作・配給についてはそれぞれ記す[3][4]。この時期のクレジットは「月浦かすみ」あるいは「秋月弘子」名義である[3][4]。特筆以外すべてサイレント映画である[2]

  • 仮名屋小梅 : 監督蔦見丈夫、「月浦かすみ」名義、製作発声映画大森撮影所、配給発声映画社トーキー、1930年1月7日公開 - 半玉
  • 一心太助 : 監督押本七之助、「秋月弘子」名義、製作・配給帝国キネマ演芸、1931年6月17日公開
  • 小判しぐれ : 監督山中貞雄、「秋月弘子」名義、製作嵐寛寿郎プロダクション新興キネマ、配給新興キネマ、1932年4月14日公開 - 仲居
  • 髑髏頭巾 : 監督冬島泰三、「月浦かすみ」名義、製作大衆文芸映画社尾上菊太郎プロダクション、配給新興キネマ、1932年5月5日公開 - お高
  • 直参出世鳶 : 監督押本七之助、「月浦かすみ」名義、製作尾上菊太郎プロダクション、配給新興キネマ、1932年5月25日公開 - 菊千代
  • 旗本次男坊 : 監督冬島泰三、「月浦かすみ」名義、製作尾上菊太郎プロダクション、配給新興キネマ、1932年7月6日公開 - 堀田家の娘小夜
  • 旅枕五月晴れ : 監督冬島泰三、「月浦かすみ」名義、製作尾上菊太郎プロダクション、配給新興キネマ、1933年2月15日公開 - 月太郎の女房お絹
  • 開化の与太者 : 監督押本七之助、「月浦かすみ」名義、製作尾上菊太郎プロダクション、配給新興キネマ、1933年2月22日公開 - 矢場の女お艶
  • 快傑鬼神組 後篇 覆面抜刀隊 : 監督郷竜二、「月浦かすみ」名義、製作・配給八州映画社、1933年3月1日公開

日活太秦撮影所

すべて製作は「日活京都撮影所」あるいは「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[2]。特筆以外サイレント映画である[2]

日活太秦撮影所
日活京都撮影所
  • 忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇 : 監督伊藤大輔、1934年5月17日公開 - その侍女 葱
  • 愛刀小松五郎 : 監督荒井良平、1934年5月24日公開 - お梅[21]
  • へり下りの利七 : 監督尾崎純、1934年8月8日公開 - 利七妹・お繁
  • 任侠二筋道 : 監督荒井良平、1934年8月23日公開 - お妙[22]
  • 唄祭三度笠 : 監督伊藤大輔、1934年9月1日公開 - お美代
  • 捕物五月雨格子 : 監督久見田喬二、1934年10月25日公開 - 妹・おたみ

第一映画

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虞美人草』(監督溝口健二、1935年)メインタイトル。
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浪華悲歌』(監督溝口健二、1936年)メインタイトル。

特筆以外すべて製作は「第一映画」、配給は「松竹キネマ」である[2]。特筆以外トーキーである[2]

  • 煙は靡く : 監督犬塚稔、サウンド版、1935年2月14日公開
  • 利根の川霧 : 監督稲垣浩、製作片岡千恵蔵プロダクション、配給日本映画配給社、1935年3月7日公開 - お篠
  • 裏町の乾杯 : 監督鈴木重吉、1935年5月22日公開
  • 恥を知る者 : 監督中川信夫、製作市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ、1935年6月6日公開 - 雪姫
  • 三ッ角段平 股旅新八景 : 監督振津嵐峡、製作片岡千恵蔵プロダクション、配給新興キネマ、1935年8月31日公開 - 料亭松屋の芸者花吉
  • 虞美人草 : 監督溝口健二、1935年10月31日公開 - 小夜子、現存(NFC所蔵[16]
  • たった一人の女 : 監督寺門静吉、1936年1月30日公開 - おえん(半兵衛娘)
  • 初姿 : 監督坂根田鶴子、監督指導溝口健二、1936年3月5日公開 - 主演
  • 浪華悲歌 : 監督溝口健二、製作第一映画嵯峨野撮影所、配給松竹キネマ、1936年5月28日公開 - アヤ子の妹・村井幸子、現存(NFC所蔵[16]
  • 金鉱 : 監督寺門静吉、1936年6月20日公開 - 現存(NFC所蔵[16]

マキノトーキー製作所

特筆以外すべて製作・配給はともに「マキノトーキー製作所」である[2]。以下、すべてトーキーである[2]

  • 黒蜻蛉 : 監督久保為義、配給千鳥興行、1936年6月5日公開 - おしず[23]、5分の断片のみ現存(NFC所蔵[16]
  • 八州侠客陣 : 監督マキノ正博・広瀬五郎根岸東一郎、配給千鳥興行、1936年8月7日公開
  • 裸の礫 : 監督松田定次・広瀬五郎・根岸東一郎、配給千鳥興行、1936年9月5日公開
  • 怪盗影法師 : 監督マキノ正博、配給千鳥興行、1936年9月23日公開
  • ごろんぼ街 : 監督マキノ正博・根岸東一郎、1936年10月15日公開 - 秋江・お袖、現存(NFC所蔵[16]
  • 舞扇 : 監督マキノ正博・広瀬五郎、1936年11月14日公開
  • 忠治活殺剱』(『忠治活殺剣』) : 監督久保爲義・マキノ正博、1936年12月6日公開 - お粂[24][25]、現存(NFC所蔵[16]
  • 初鳶櫓音頭 : 監督牧陶六(マキノ正博)、1936年12月31日公開
  • 刀を抜いて : 監督松田定次、1937年1月15日公開
  • 喧嘩菩薩 : 監督牧陶六(マキノ正博)、1937年2月28日公開 - おけい[26][27]、現存(NFC所蔵[16]

日活京都撮影所

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左から二番目が大倉(当時満22歳)。一番左が小松みどり、大倉の右が藤川三之祐、以降左から志村喬原駒子…。『血煙高田の馬場』(監督マキノ正博、1937年)のスチル写真
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左が大倉、右は阪東妻三郎。『血煙高田の馬場』(同上)のスチル写真。
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戸上城太郎とともに。公開当時満25歳、『小判花嫁』(監督紙恭平、1941年)のスチル写真。

特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[2]

  • 宮本武蔵 地の巻 : 監督尾崎純、1937年6月10日公開 - 朱美
  • 怪盗山獄隊 : 監督辻吉郎、1937年8月26日公開
  • 八丁浜太郎 : 監督益田晴夫、1937年9月9日公開 - お才[28]
  • 妖棋伝 前篇 : 監督マキノ正博、1937年10月1日公開 - 娘・おたね
  • 水戸黄門廻国記 : 監督池田富保、1937年10月14日公開 - 夏江
  • 忍道血風録 : 監督菅沼完二、1937年11月25日公開 - 娘・綾
  • 血煙高田の馬場 : 監督マキノ正博・稲垣浩、1937年12月31日公開 - 弥兵衛の娘お妙、戦後改題版『決闘高田の馬場』が現存(NFC所蔵[16]
  • 白浪五人男 : 監督荒井良平、1938年1月7日公開 - お針師匠娘お里
  • 槍の権三 : 監督菅沼完二、1938年1月27日公開 - 深雪
  • 江戸の花和尚 : 監督マキノ正博、1938年2月1日公開 - お花
  • 鴛鴦道中 : 監督マキノ正博、1938年2月17日公開
  • 忠臣蔵 地の巻 : 監督池田富保、1938年3月31日公開 - 吉良の間者 お梅、現存(NFC所蔵[16]
  • 忠臣蔵 天の巻 : 監督マキノ正博、1938年3月31日公開 - 吉良の間者 お梅、現存(NFC所蔵[16]
  • 巨猫伝 : 監督菅沼完二、1938年4月14日公開 - 腰元弥生
  • 妖棋伝 後篇 : 監督藤田潤一、1938年4月21日公開 - お種
  • 右門捕物帖 血染の手形』(『血染めの手形』) : 監督荒井良平、1938年4月28日公開 - お局(お弓)[29]
  • 次郎長一家 : 監督松田定次、1938年5月21日公開 - おきく
  • 新撰組 : 監督マキノ正博、1938年6月1日公開
  • 喧嘩主従 : 監督益田晴夫、1938年6月21日公開 - 主膳娘・双葉[30]
  • 腰本吉弥組 : 監督菅沼完二、1938年6月23日公開 - 腰元吉弥
  • 度胸千両 : 監督松田定次、1938年8月25日公開
  • 浪人鉄火 : 監督倉谷勇、1938年9月22日公開
  • 燃ゆる黎明 : 監督マキノ正博、1938年9月29日公開 - 松風[31]
  • 地獄の蟲 : 監督稲垣浩、1938年10月6日公開 - 娘おいさ
  • 続水戸黄門廻国記 : 監督池田富保、1938年10月13日公開 - 小笹
  • 鞍馬天狗 竜攘虎搏の巻 : 監督松田定次、1938年11月1日公開 - 雪路(山岳党主妹)、現存(NFC所蔵[16]
  • 赤垣源蔵 : 監督池田富保、1938年11月17日公開 - 女中お杉、戦後改題版『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』が現存[32]
  • 荒獅子 : 監督松田定次、1938年12月15日公開、現存[33]
  • 初姿人情鳶 : 監督衣笠十四三、1938年12月31日公開 - 鶴乃[34]、戦後改題版『大江戸の闇』が現存(NFC所蔵[16]
  • 武士道の鬼 : 監督倉谷勇、1939年2月8日公開
  • 浮名小路 : 監督マキノ正博、1939年3月1日公開
  • 王政復古 担龍篇 双虎篇 : 監督池田富保、1939年3月30日公開 - 芸妓菊松
  • 尊王村塾 : 監督稲垣浩、1939年5月18日公開
  • 鞍馬天狗 江戸日記 : 監督松田定次、1939年7月1日公開 - お雪、現存[35]
  • 隼捕物帖 謎の手裏剣 : 監督辻吉郎、1939年7月27日公開
  • 鞍馬天狗 恐怖篇 : 監督松田定次、1939年8月3日公開 - お雪
  • 牢獄の花嫁 : 監督荒井良平、1939年8月17日公開 - お半、総集篇97分が現存[36]
  • うぐいす侍 : 監督丸根賛太郎、1939年8月31日公開 - 加津子
  • 豪傑誕生 : 監督田崎浩一、1939年9月21日公開
  • 牢獄の花嫁 解決篇 : 監督荒井良平、1939年9月28日公開 - お半
  • 無明有明 前篇 : 監督松田定次、1939年10月19日公開 - 鶴江(貢妻)
  • 無明有明 後篇 : 監督松田定次、1939年12月1日公開 - 鶴江(貢妻)
  • 純情一代男 : 監督松田定次、製作日活多摩川撮影所[2](日活京都撮影所[37])、配給日活、1939年12月21日公開
  • 涙の捕縄 : 監督松田定次、1940年2月1日公開 - おこよ
  • 乱れ柳女仇討 : 監督衣笠利彦(衣笠十四三)、1940年2月15日公開 - 姉娘お秀
  • 名月赤城山 : 監督組田影造(久見田喬二)、1940年3月21日公開
  • 宮本武蔵 第一部 草分の人々 第二部 栄達の門 : 監督稲垣浩、1940年3月31日公開 - お光
  • 宮本武蔵 剣心一路 : 監督稲垣浩、1940年4月18日公開 - お光
  • 赤穂の人妻 : 監督松田定次、1940年6月8日公開
  • 大楠公 : 監督池田富保、1940年6月16日公開 - 朝菊の局
  • 風雲将棋谷 前篇 : 監督荒井良平、1940年8月15日公開 - 朱実
  • 風雲将棋谷 完結篇 : 監督荒井良平、1940年9月12日公開 - 朱実
  • めくら笛 : 監督田崎浩一、1940年9月26日公開 - 味噌屋娘 お千江(お茅絵)
  • 北海に叫ぶ武士 : 監督松田定次、1940年10月28日公開[38]
  • 右門江戸姿 : 監督田崎浩一、1940年12月30日公開 - お蘭(加賀藩腰元)
  • 山岳武士 : 監督松田定次、1941年2月11日公開
  • 小判花嫁 : 監督紙恭平、1941年3月11日公開
  • 怒濤時代 : 監督田崎浩一、1941年4月24日公開
  • 海を渡る祭礼 : 監督稲垣浩、1941年5月4日公開 - 踊り子お雪、現存(NFC所蔵[16]
  • 姿なき復讐 : 監督松田定次、1941年7月8日公開
  • 母なき家の母 : 監督伊賀山正徳、、製作日活多摩川撮影所、配給日活、1941年7月24日公開[39]
  • 右門捕物帖 幽霊水芸師 : 監督菅沼完二、1941年8月14日公開 - 水芸師お瀧、現存(NFC所蔵[16]
  • 南方発展史 海の豪族 : 監督荒井良平、配給映画配給社、1942年10月8日公開

戦後

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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