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今川焼き

小麦粉からなる生地に餡を入れ、金属製焼き型で焼成した和菓子 ウィキペディアから

今川焼き
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今川焼き(いまがわやき、旧字体今川燒[1])は、主に小麦粉からなる生地を入れ、金属製焼き型で焼いた和菓子である[2][3]大判焼き(おおばんやき)などとも呼ばれる。

概要 今川焼き, 別名 ...

今川焼きは、その名称が統一されていないことで知られる。今川焼きと同じ中身や形状の菓子は日本各地や東アジアにみられるが、地域や店によりさまざまに、形状や店名などを冠する呼び名がつけられてきた[4][5]。国語学者の岸江信介によると、今川焼きを指す呼び名は少なく見積もっても全国で100種類以上あるという。さらに、同じ地域であっても世代によって異なる呼び名が使われることもある[6]。そのような菓子のうち最も記録が古い名称が「今川焼き」であるため、本記事では総称に「今川焼き」を用いる。

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概説

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焼いている様子(神戸市阪急三宮駅にて)。この店舗では「御座候」という名称で販売されている(後述)

小麦粉、砂糖を水で溶いた生地を鉄や銅製の円形に窪んだ焼き型へ流し込み、餡を包埋し、高さの低い円筒形ないしは分厚い円盤状に焼成したものである[7]。同様の原料を用いて焼成されても形状が異なると様々な呼称があり[8]、全国各地で同様の食品が作られている。固定や常設の店舗だけではなく神事仏事に限らずいわゆる祭りの露天屋台で販売される場合も多く、日本人になじみ深い菓子である。

また、出来たての状態での販売のほか、冷凍食品としても流通している。

歴史

史料に初めて見えるのは、安永6年(1777年)に記された『富貴地座位』江戸名物菓子之部に登場する「今川やき 那須屋弥平 本所」である[9]。ただし、当時の「今川やき」がどのような菓子であったかは不明である[9]

現在の今川焼きとしての姿が確認できるのは、幕末の風俗を描いた清水晴風の『街の姿』である[9]。『街の姿』の中では、6つのくぼみがある小さな鉄板で今川焼きが焼かれており、2つで4文だったという。当時の子供のおこづかいは4文ほどであり、この屋台は子供相手の駄菓子商売だったと考えられる[9]。「日本初の近代的国語辞典」とされる『言海』でも取り上げられ、『大言海』では詳しい説明がなされた[6][注釈 1]

明治時代、庶民のおやつとして大流行した[11][12][13]。その流行と繁盛は、首都圏において従来の駄菓子屋の経営を悪化させるほどであったという[7]森永製菓創業者の森永太一郎が「焼芋屋と今川焼がある限り銀座での西洋菓子の進出は困難」と言うほど、盛んに売られていた[14]大正時代には「大正焼き」の別称もあった[15]

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名称

要約
視点

「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされるものに、江戸時代中期の安永年間[16]、江戸市内の名主・今川善右衛門が架橋した今川橋[注釈 2]付近の店で、桶狭間合戦をもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となったため[11][12]、一般名詞化して広がったとする説[3]がある。

日本国内での別名

この和菓子の名称は全国的には統一されておらず、地域や各店舗によってさまざまに呼称されている(表は五十音順)[17]

国語学者の岸江信介の調査によれば、全国レベルでは「大判焼き」という名称が主流であり、これは1956年から1958年まで連載されていた小説『大番』の流行に由来するという[18]。舞台でもある愛媛の製菓・製パン機械メーカー、松山丸三では、一回り大きな今川焼きを「大番焼き」と称し、これを焼くための機械を販売しようと考えた。しかし、単に小説の題を取るだけでは芸がないとして、サイズが大きいことも踏まえた「大判焼き」という呼び名が考案された。松山丸三では焼き器と「大判焼の素」のセット販売を行っており(「大判焼」と書かれた暖簾も付属した)、これを使えば素人でもすぐ店が開けるため、「大判焼き」の名はみるみる間に四国、中国地方から全国へと広がっていったという。このように販売時に用いられる暖簾は、地域ごとに異なる名称が定着する大きな要因となった。例えば、兵庫県姫路市の御座候では、1950年の開店当初は「回転焼き」として販売されていたものの、暖簾やのぼりに「御座候」という社名を掲げるようになると、やがて製品自体もこの名で呼ばれるようになった。御座候の店舗の展開と共に、今川焼きの呼称としても広まっていった[6]

「回転焼き」は、第二次世界大戦前から大阪を中心に使われてきた呼び名の1つである。一方、同じ時期の上方においては今川焼きのほかに、「巴焼き」や「太鼓饅頭」[注釈 3]などの呼び名も使われていた。4代目桂米團治が創作した上方落語代書』(1939年初演)には、「巴焼きを売る」を職歴として履歴書に書くためにはどのような表現にすべきか、思案の末「まんじゅう商を営む」とする場面がある。ここでは「回転焼き」という呼び名にも言及されている。さらに、後に2代目桂枝雀が演じた際には、加えて「太鼓焼き」、「太鼓饅頭」、「今川焼き」という呼び名にも言及された[6]

類似の菓子の中でも、生地に混ぜものがなく表面が白っぽいものを特に今川焼きと呼ぶ、と説明する書籍もある[20][21]

日本記念日協会は、調理器具メーカーの株式会社豊吉からの申請にもとづいて、7月28日を「何焼き」との語呂合わせで「大判焼の名前を皆で議論する日」としている[22]。また、豊吉では2025年6月に「今川焼き・回転焼きなどの地域呼称と味の好み」に関する調査を行った。これによれば、普段何と呼ぶかについては、今川焼き(35.1%)が最も多く、大判焼き(27.3%)、回転焼き(23.8%)が続いた。また、知っている呼び名としては、今川焼き(56.8%)、回転焼き(47.9%)、大判焼き(44.8%)が挙げられた[23]

形状や製法に基づく名称

商品名や地域による名称

JRA競馬場内で販売する「G1焼き」[注釈 10]などイベントや祭り開催場所に関連する名称を用いる場合もある。

2021年頃に日本のインターネット上では、上記のように呼称が統一されていないことを皮肉り「ベイクドモチョチョ(ベイクドモチョモチョ)」を統一名称にしようというジョークも生まれている[32][33][34]

日本国外での名称

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台北の紅豆餅店(2017年)

大韓民国には、日本から「オバントク」(오방떡、obang-ttok)として伝わった。その名は大判焼きに由来する。(「トク 떡」は、朝鮮半島の伝統的な餅である)。IMFによる韓国救済(1997年)の後に砂糖と小豆の価格が高騰すると、餡の代わりに玉子を入れたケランパンが考案され、やがてオバントクを上回るほどの人気を博した[35]

台湾では「日式輪餅」[13]、「車輪餅英語版(チェールンビン)」[36][37]、「紅豆餅(ホンドウビン)」[36][37]などの名称で販売されている。

紅豆餅と車輪餅がよく使われるが(南部では前者、北部では後者が多いともされる)、奶油餅とも言われたり、台湾語では掐練、公阿貴、摳啊貴などとも呼ばれる。稀に日本語と同じ発音で太鼓饅頭(タイコマンジュウ)、今川焼(イマガワヤキ)と呼ばれることもある[38]

台湾にはもともと小豆餡を食べる文化はなかったが、日本統治時代に今川焼きと共に伝わった[39]。当初は太鼓饅頭と呼ばれることが多かったが、これは当時台湾に渡った日本人にはこの呼び名に親しんだ九州出身者が多かったからだと言われている[40]。後にクリーム、干し大根、タロイモ、抹茶、ジャガイモ、豚キムチなど、小豆餡以外にも様々な具が使われるようになり、独自の進化を遂げた[38]

マレーシアではトキワドー(Tokiwado)などと呼ばれる[41]。なお、常盤堂雷おこし本舗は1980年代初頭にシンガポール現地法人を立ち上げ、今川焼を主力製品として販売していた[42]

フィリピンでは"Japanese cake"としても知られる。[要出典]

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派生品

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様々な味で冷凍食品としても流通している。

餡は小豆あん(粒あん・こしあん)が主流だが、白あんカスタードクリームチョコレートクリーム、いちごクリーム、クリームチーズキャラメル抹茶クリームなどの他、蒸しじゃがいもをマヨネーズで和えたポテマヨ、ハンバーグ、ソーセージなどの具材を用いた様々な派生商品[43]も散見される。

台湾では餡以外にタロイモ、ゴマあんとピーナツ、キャベツ炒めやカレーなどの具材も好まれている。

類似品

  • 生地を金属製の型へ流し入れて焼成する菓子では、の魚体を模した「たい焼き」が著名である[44][45]
  • 同様の原料を用いるが、「どら焼き」は焼成法と形状が異なる[8]
  • 明治の初め頃から京都で作られていた望月は今川焼きによく似ているものの、金属型を使わないという点で異なる。望月は、まず薄く焼いた帯状の生地を二つ折りにしてから鉄板の上で輪にして、その中にまた薄く生地を注ぎ、皿状にする。これにあんを詰め、上面にまた薄く生地を垂らした後にひっくり返して焼き上げるのである。名は謡曲『望月』に由来する[46]
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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