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大石智久

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大石 智久 (おおいし としひさ[注釈 1]、? - 17世紀初め[注釈 2])は、安土桃山時代から江戸時代初めにかけての武将通称は荒河介(荒川助)。初代対馬藩主・宗義智の家臣。

生涯

大石瀧之介調信(または大石又三郎[5][6])の子として生まれる[7]大石氏惟宗氏の末裔で[6][注釈 3]、佐護大石原に住んだ彦五郎の時に大石氏を称したという[8]

天正19年(1591年)2月22日、主君・宗義智より一字拝領し、荒川助(荒河介)智久を名乗った[9][4]

文禄の役には、弟・源左衛門智正と共に参戦した[10]。「朝鮮御陣御供人数覚」では、大石党上下38人の筆頭に智久の名が挙げられており、智久は朝鮮に出陣した大石党の主将であった[11]

天正20年(文禄元年、1592年)4月27日の忠州における戦いの際は、敵の矢に進路を阻まれる中、鎌槍を手に進んで、敵の首3級を獲った(忠州の戦い[12][13]

文禄2年(1593年)1月、日本軍が籠もる平壌城が軍に包囲された際、智久は敵兵50余人を斬ったという[14][15]。日本軍が平壌から撤退するのに当たっては、敵が雨のように矢を放つ中、智久は鎧兜を脱いで櫓に上って敵の様子をうかがい、味方にそれを伝えた[16][17]。これにより小西行長からその勇を賞された[12][18]

この他、山猟の際に人々の前で虎と組み合うなど、数々の手柄を立てたという[19][20]。虎については、弟・智正と共に仕留めたとされる[21][22]

慶長元年(1596年)9月には、文禄の役の功により佐護湊に領地を与えられている[9][19][23]。慶長6年(1601年)9月、佐護郡を与えられ[9][24][23]、佐護郡代となった[25][26]

「大石氏家譜」断簡によると、慶長年間に死去した[4]。墓は、明治維新の頃に廃絶したとみられる泊船庵(泊舩庵)[注釈 4]の跡地にある[27]

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脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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