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太安万侶

?-723, 奈良時代前期の文人。稗田阿礼が誦習した旧辞を筆録して古事記を完成させた。 ウィキペディアから

太安万侶
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太 安万侶(おお の やすまろ、旧字体太 安萬侶)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本貴族。名は安麻呂[注釈 1]とも記される。朝臣。『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕に所収されている、久安5年(1149年)謹上の「多神宮注進状」によれば、小錦下多品治の子とされる[1][2]官位従四位下民部卿従三位

概要 凡例太 安万侶, 時代 ...

経歴

文武朝大宝4年(704年)正月、正六位下から二階昇進して従五位下叙爵する[3][注釈 2]

和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進する[4]。同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した[5]。元明朝末の和銅8年(715年従四位下に至る[6][注釈 3]

元正朝霊亀2年(716年)、太氏(多氏)の氏長となる[7]。一族の末裔とみられる多人長(おおの ひとなが)は、安万侶は養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったと主張している[8]。元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去。最終官位民部卿従四位下[9]。遺骨などの調査により享年は60才程度と推定されている。

明治44年(1911年)3月13日、古事記撰上千二百年に際して、特旨を以て位階追陞され、従三位に叙されている[10]

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勲等を持つことの考察

和銅5年(712年)に書かれた『古事記』の序には安万侶が勲五等の勲等を得ていることが記されている(墓誌にも同様の記述がある)。勲等は武官としての功績で得たと考えられることから、安万侶を単なる文官として位置づけることには問題があるとして、以下の考察がある。

  • 和銅2年(709年)に行われた蝦夷征討副将軍格で参加したとの推測。神亀元年(724年)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人は勲四等の勲等を得て従五位上から従四位下に昇叙されていることも参考になる(黛弘道[11]
  • 多氏の一族で安万侶のみ四位に昇っていることに着目し、多氏は五位までの昇進に留まる家柄であったが、安万侶はその戦功によって例外的に四位まで昇った(鷺森浩幸)[12]

太安萬侶墓

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太安萬侶墓誌・真珠
国宝
墓誌は銅板製。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

1979年昭和54年)1月22日、奈良県奈良市此瀬町字トンボ山の茶畑で、土地所有者の竹西英夫がチャノキの改植作業中に安万侶の北緯34度39分55.4秒 東経135度54分26.0秒)と墓誌を発見した[13][14]奈良県教育委員会文化財保存課から連絡を受けた奈良県立橿原考古学研究所は翌1月23日に遺骨銅板墓誌が出土したと発表し、文化庁東京国立文化財研究所奈良国立文化財研究所、奈良市教育委員会の指導・協力を受けて、同年1月25日から3月31日まで国庫補助事業として橿原考古学研究所が発掘調査を行い[15]火葬された真珠が納められた木炭槨と木櫃を発見した[16]

墓誌は長辺291 mm、短辺61 mm、重量76.52グラムの純銅に近い銅板で、厚さは右側辺で約1 mm、左側辺で約0.5 mm[17]。墓誌の銘文は2行41字で、右側に22字、左側に19字が刻まれている[18]。(平城京の)左京四条四坊[注釈 4]に居住したこと、位階勲等は従四位下勲五等だったこと、癸亥年(養老7年)7月6日に歿したことなどが記載されている。墓誌銘全文引用は以下の通り。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は「太安萬侶墓」として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された[19][20]。また墓誌は、1981年(昭和56年)6月9日に真珠4顆を附とする「太安萬侶墓誌」として重要文化財美術工芸品)に指定され[21][22][23][24]奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で常設展示されている[25]2025年令和7年)9月26日には、木櫃残欠を附に追加したうえで「太安萬侶銅板墓誌」として国宝に指定されている[26][27]

官歴

注記のないものは『続日本紀』による[注釈 5]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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