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宮ノ陣神社
久留米市にある神社 ウィキペディアから
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宮ノ陣神社(みやのじんじんじゃ)は、福岡県久留米市宮ノ陣にある神社。旧社格は村社(神饌幣帛料供進社)。南朝の二人の皇子(後村上天皇の皇子・良成親王、後醍醐天皇の皇子・懐良親王)を祭神とする。
歴史
要約
視点
前史「将軍梅」

宮ノ陣は、南北朝時代の1359年(正平14年)8月、征西大将軍・懐良親王が筑後川の戦いに際して本陣を置いた地とされる。懐良親王はこの時、陣営に阿弥陀如来を安置し、その手向けとして一株の紅梅をお手植えしたと伝えられる[3]。
この梅が後に「将軍梅(しょうぐんばい)」と呼ばれるようになり、江戸時代には楠木氏に連なるとされる庄屋が巡らせた木の柵で代々保護された[2]。
王政復古後の1868年(慶応4年)、最後の久留米藩主・有馬頼咸が囲いを石造りの玉垣に改めさせた[2]。伝承によれば、公卿の四条隆謌から将軍梅を大切に保護するように命じられたことに起因するという。
有馬頼咸公宮中ニ伺候ノ際四条公ヨリ「卿ノ領内ニ征西将軍御手植ノ将軍梅尚存ズル由、定メテ大切ニ保護サレ玉ハン」ト尋ネラレ藩公ハ勢ヒ「大切ニ保護罷在ル」旨答ヘラレシガ退出後急使ヲ久留米ニ飛バシ昼夜兼行ニテ石ノ玉垣ヲ作レリ夜業シテ工ヲ急ゲルコト誠ニ遽シカリシト代々云ヒ伝ユルマヽ記ス — 楠正人『宮地邑物語』(筑後郷土研究会、1937年)付録「明治廿一年頃(将軍社建立直前)宮之地図」より。
1873年(明治6年)、将軍梅付近に懐良親王を祭神とする神社を造営する計画が持ち上がった[4]。ところが翌年に佐賀の乱が勃発し、その後も水害風災が相次いだために頓挫した[4]。
神社創建

中央左に「将軍(梅)」と書かれた立札が見える
1885年(明治18年)1月27日、合川村宮盾の地に、良成親王を祭神とする横一間入一間の小社が創建された[4]。しかしその後、この祠は暴風により倒壊したので、良成親王と縁故ある懐良親王の遺愛の梅の傍らに遷されることになった[4]。
1888年(明治21年)11月に横二間入一間半の社殿が造営された[4]。ところが翌1889年(明治22年)、大洪水に見舞われて、社殿以外の境内は田畑に復した[5]。1892年、1893年(明治25、26年)頃から再興が図られたが、1894年(明治27年)の日清戦争勃発により中止された[5]。
明治30年代に入ると、小松宮彰仁親王、次いで皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の訪問があった(#皇室の訪問歴)。これを受けて社殿改築、拝殿増築の機運が高まった[5]。
1902年(明治35年)11月に増改築された。
1911年(明治44年)9月、懐良親王を合祀した[6][7]。
1914年(大正3年)、将軍梅の繁茂に伴い、有馬伯爵家に寄進を請願して玉垣を増設した[8]。
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皇室の訪問歴

文化財・社宝
梅の名所として
境内には、久留米市最大級の梅である将軍梅を筆頭に、約60本の梅が植えられており、花の見頃には多くの見物人で賑わいをみせてきた。丸山敏雄は1924年(大正13年)2月、将軍梅を見物しようと訪ねたことへの後悔の念を『筑紫野雑記』に綴っている。
近年は「将軍梅 梅まつり」と題するイベントとして3月下旬に開催されている。
脚注
参考文献
関連項目
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