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宮崎隆親
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宮崎 隆親(みやざき たかちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。大崎氏の家臣。陸奥国加美郡宮崎城主。
略歴
出自
『笠原系図』によると、宮崎氏は木曾義仲の末裔という笠原重広を祖とする。延元2年(1337年)、奥州に入った重広は初め志田郡師山城を居城とするが、延元4年(1339年)に宮崎城を築き、以来宮崎氏は160余年の長きに亘って加美郡を統治した[1]。
生涯
宮崎隆治の子として誕生する。大崎義隆に仕え、侍大将を務めた[2]。
天正16年(1588年)の大崎合戦では中新田城に籠城して活躍し[1]、天正18年(1590年)の葛西大崎一揆では総大将を務め、中新田城・宮崎城に籠もって伊達政宗軍と戦った[2]。
宮崎城落城後は子・隆元や道城蔵人・上ノ沢讃岐・今野与惣右衛門らとともに仙北地方に逃れるが、後に山形の村山に移り、最上氏の重臣・楯岡満茂に仕え、名を笠原織部と改めた[1]。
慶長16年(1611年)8月16日、死去。戒名は自性院忠岩雄義大居士[3]。
脚注
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