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宮川一笑
江戸時代の浮世絵師 ウィキペディアから
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宮川 一笑(みやがわ いっしょう、元禄2年〈1689年〉 - 安永8年12月14日〈1780年1月20日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。
来歴
宮川長春の門人。本姓は藤原、のちに県(あがた)氏を名乗る。俗称喜平次。一笑のほかに湖辺斎、安道、蘇丸と号す。江戸芝田町二丁目で家主を務めていたという[1]。長春譲りの肉筆美人画を専門とし、宮川派の絵師の中では宮川長亀と並んで双璧とされる。作画期は享保から没年にまで及び、数多くの作を残す。
寛延3年(1750年)、日光東照宮の彩色修理に携わった長春がその報酬を巡って稲荷橋狩野家より暴行を受け、これを遺恨とした長春の子の長助と一笑は、稲荷橋狩野家に夜分に斬り込み、当主狩野春賀をはじめとする三人を殺傷した。これにより宝暦2年(1752年)11月、一笑は伊豆国新島へ流罪となる。このとき64歳であった。新島では、島民のために七福神や仏画を描いて露命をつないだ。また、宮川の画姓を憚って本姓の藤原または県氏を名乗り、安道と蘇丸の号を用いた。島民や流人仲間に絵を教え、「安道」印を継いだ者もいたようだ[2]。そのまま赦免されることなく新島にて没す。享年91。
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画風
現存する作品はおよそ60点余、その内8割を江戸在住時が占める。紙本が多く、師長春に比べて絵の具の質が劣る。一笑の描く美人画は髪型に時代ごと特徴がよく現れており、当時の流行が反映されている。しかし、面貌表現には作品によって差が大きく、基準作が見出し難い。初期は下膨れの顔に二重まぶたで眉も自然なカーブを伴う優しい雰囲気だが、次第に顔の幅が狭めえられ一重まぶたになって眉の角度が大きくなっていく。次いで、眉が太くなる筆運びが自然になり、紅は厚く髪も黒々と豊かに描かれ、顔と髪の比重に変化が見られる。勢い良く引かれた線は彩色に被るのも厭わず、その大らかな筆致と色彩は、師の長春とは異なった趣を持つ。作品のうち7点の「吉原歳旦の図」が知られており、これらはほぼ同じ図様であるが、同門の長亀の作品から学びながらも家屋や人物配置を変えるなどして一笑独自の形式を作り出している。これら「吉原歳旦の図」の制作時期については、享保の後期頃から元文、寛保頃のあいだと考えられる。
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作品
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脚注
参考文献
関連項目
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