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宮本康弘

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宮本 康弘(みやもと やすひろ、1948年11月30日 - )は大阪府出身のプロゴルファー

概要 宮本 康弘Yasuhiro MIYAMOTO, 基本情報 ...

兄の宮本省三もプロゴルファー。

来歴

要約
視点

茨木カンツリー倶楽部とは目の鼻の先にある茨木市立豊川中学校出身[1]で、中村通山本善隆前田新作、後輩の井戸木鴻樹も同校出身である[2]

1968年6月にプロ入りし[3]、同じ頃に売り出した中村・山本・吉川一雄と共に「関西四天王[4]の一人として、1973年から1979年にかけて8勝を挙げ、1977年には賞金ランキングでベスト5に入った[1]。これからという時に内臓疾患で戦列を離れ、治って復帰すると、今度は網膜炎に見舞われるなどアクシデントが続く[1]1981年にはランキング51位に転落して月例競技を渡り歩く生活を4年間も余儀なくされたが、ローカルの試合でも、小まめに出場して、ゲームの勘を忘れないように努める[1]

1973年、ダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる「全日空フェニックストーナメント」[5]では、吉川と最後まで激しいデッドヒートを繰り広げ、最終日の16番で吉川に首位を奪われたが、吉川は17、18番で痛恨のボギーを叩く[3]。宮本はそこをパーで堅実にまとめ[3]、18番でエッジからピンに1.5mに付けパーに収め[6]逆転優勝[7]。通算イーブンパーでプロ入り初優勝を飾り、2位の吉川から祝福を受けた[8]

1975年のスポーツ振興インターナショナルでは2日目にインから出てパットで連続3バーディーを決め、7バーディー、3ボギーの68をマークし、通算7アンダー137で2位から首位に立った[9]。3日目には前日3位から追い上げた新井規矩雄に並ばれるが、通算6アンダーの210で依然首位を保つ[10]。最終日には2アンダー70をまとめ、通算8アンダー[11]280で中村に2打差付け[12]、兄弟優勝[13] [14]を決める。

同年の東海クラシックでは2日目まで首位を争っていた橘田規と前田が16番で左の下に落として優勝争いから姿を消す中、3日目67をマークし、そのまま優勝に輝いた[15]

1976年中日クラウンズでは初日に首位タイのミヤ・アエビルマの旗 ビルマ)、ビリー・ダンクオーストラリアの旗 オーストラリア)、小林富士夫から1打差の4位に着けると、3日目には青木功デビッド・グラハム(オーストラリア)、尾崎将司川田時志春と並んで首位を保ったアエと4打差の2位グループに着け、最終日は2位タイからスタート[16]。15、16番で連続バーディを奪うなど6バーディ、1ボギーで、先にホールアウトしたグラハムに対し2打差を付け17番を迎えるが、寒さの中、17番ティで15分間近く待ったことでリズムが狂い、ティショットをOB[16]。打ち直しも左バンカーに入れ、結局このホールでトリプルボギーを叩いた。18番ではピン手前8mに2オンしたが、プレーオフの望みをかけたパットが外れ、1打差で惜しくも初優勝を逃した[16]。同年の日本シリーズでは最終日に66をマークし、村上隆と並んでの3位タイと健闘[17]

1977年のフジサンケイクラシックでは山本とデッドヒートを繰り広げ、アウトは共に35で、11番バーディーの山本が1打リードで最終ホールを迎えたが、山本のボギーに対して宮本が5mのバーディーを決め一挙に逆転。通算1アンダーで[18]中嶋常幸、新井、青木、鈴木規夫も抑えて優勝する[19]

1977年の札幌とうきゅうオープンでは初日を4アンダーの3位[20]でスタートすると、2日目には2アンダーの通算6アンダー138で[21]首位に躍り出た[22]。3日目には5、9、10番のバーディーで9アンダーと2位以下を大きく引き離して独走態勢に入りかけたが、強風でペースを崩す[23]。11番右ドッグレッグのミドルホールは右の土手すれすれを越えれば後は短いアプローチを残すだけで、攻めのゴルフをしようと思い切ってスライスをかけたが、ティーショットは大きく右に切れて土手上の林へ行く[23]。それでもフェアウェイに出してピン奥4mに3オンしたが、第1パットは意外に転がって1mオーバーし、パットの勘がぐらつく[23]。結局11番で4パットするなど崩れて通算4アンダー212、辛くも4打差で首位を守った[23]。最終日には2位の中嶋に1打差付けてスタートし、2、3番で連続ボギーを叩いて中嶋に逆転されたが、4番で80cmに着けて追いつき、5番はダブルボギー、6番はバーディーと中嶋と共に同じ展開で譲らなかった[24]。。7番で左崖下に落としてボギー、9番で中嶋に見事なアプローチショットを決められて2差に開く[24]。アウトで3オーバーと崩れかかると、距離が長くてアウトよりも難しいインでもいきなり中嶋にバーディーを取られたが、11番で奥のエッジから直接カップインして追いすがる[24]。前日に4パットしたホールでのバーディにすっかり気を良くし、12番で3mを決め、14番で4mのパーパットを外した中嶋と並ぶ[24]。15番で2mを沈めて一気にリードを奪うと、17番の難しいショートホールを1m半につけてバーディーとする[24]。アウトで4バーディーと盛り返して通算5アンダー[25]283でホールアウトし[24]、中嶋を破る[26]

1977年の広島オープンでは18番でバーディーを決める通算13アンダーで[27]尾崎将司の連覇を阻止する[28]

1979年には札幌とうきゅうオープンを通算8アンダーで[29]制し同大会2勝目を挙げたほか[30] [31]、同年の関西オープン[32]では通算5アンダーで優勝を飾り[33]、兄弟制覇を成し遂げる。

1982年の日本アジア航空ゴルフトーナメントでは初日を吉川・陳志明&許勝三(中華民国)と並んでの2位タイ[34]でスタートし、3日目には許勝と並んでの3位タイ[35]に着け、最終日には前田と並んでの8位タイ[36]に入った。

1984年くずは国際では鈴木規夫とシーソーゲームをやりながら[37]、最終的にはウェイン・グラディ(オーストラリア)と並んでの2位タイ[38]に入った。

1985年ブリヂストン阿蘇オープン高橋勝成・尾崎と並んでの7位タイ[39]、フジサンケイクラシック6位タイ[40]ペプシ宇部では湯原信光矢部昭加瀬秀樹デビッド・イシイアメリカ)と並んでの7位タイ[41]よみうりサッポロビールオープンでは小林と並んでの8位タイ[42]に入る。日本プロでは3日目を後半33で回って首位に並び、最終日には青木と並んでの9位タイ[43]であった。

1986年には静岡オープン出口栄太郎長谷川勝治・高橋と並んでの9位タイ[44]東北クラシック森憲二高橋五月前田新作と並んでの10位タイ[45]に入ったが、東北クラシックが森・高橋と共にレギュラーツアーでの最後の十傑入りとなる。

1996年NST新潟オープンを最後にレギュラーツアーから引退し[46]、その後はシニアツアー入り。

1999年日本プロシニアでは3日目に金井清一・長谷川と3人でトップに並んだにもかかわらず、崩れてしまい上野忠美に優勝をさらわれた[47]

2001年の日本プロシニアでは海老原清治らに5打差を付け、参加選手中で唯一、通算スコアをアンダーパーとする4アンダー284の好スコアをマークしてシニア初優勝を飾った[31]。全国規模の大会ではレギュラー時代の1979年、札幌とうきゅうオープンで優勝して以来実に22年ぶりで、日本タイトルは32年間のプロゴルフ生活でこれが初めてであった[31]

2002年は10試合に出場して沖縄シニアの8位タイがベスト[31]2003年は8試合に出場してTVQシニアの3位がベストであった[48]

2004年アデランスシニアの46位タイのみの成績と低迷し[49]2005年は4試合に出場してファンケルクラシック23位タイ[50]であった。

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主な優勝

レギュラー

  • 1973年 - ダンロップフェニックス
  • 1975年 - 東海クラシック、スポーツ振興インターナショナル
  • 1977年 - フジサンケイクラシック、札幌とうきゅうオープン、広島オープン
  • 1979年 - 札幌とうきゅうオープン、関西オープン
  • 1994年 - 近畿オープン

シニア

  • 2001年 - 日本プロシニア

脚注

外部リンク

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