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富士信安
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富士 信安(ふじ のぶやす、生年不詳 - 宝暦10年5月18日(1760年6月30日))は、江戸時代の富士山本宮浅間大社の大宮司で、富士氏当主。
略歴
宝永大噴火
信安が大宮司在任中、宝永大噴火が発生した。この際に江戸幕府より祈祷が命じられ、公文・案主・別当らと祈祷を行っている。この功により宝永4年(1707年)12月18日に幕府より銀百枚を拝領している[1]。また翌年には修造料として2000両を賜わっている[2]。
放逐
天和3年(1683年)の「幕府裁許状」によると[3]、浅間大社に係る沙汰は四人合議制[注釈 1]を取ることが記されている。一方で信安と他三人との関係は良好とは言えず、社中の権限に関連して争論が発生することがあった。例えば宝永5年(1708年)には浅間大社の遷宮事業に関連して、信安は別当宝幢院・公文・案主を相手取り寺社奉行へ訴え出るなどしている[4][5]。
そのような中で正徳元年(1711年)に四人による合議を経ず人事を決めたとして、信安は幕府より懲罰を受けている。結果、父信時と共に浅間大社の鎮座地である大宮を去ることとなった。
時代は下り、三代後の大宮司である富士信栄の代に入ると、信栄の後見人・別当宝幢院・公文・案主により追放を取りやめるよう寺社奉行所に申請がなされた。結果として居住地の制限は解除され、富士郡黒田に住むこととなり、生涯を終えたという[6]。
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脚注
参考資料
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