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小田滋

日本の法学者 ウィキペディアから

小田滋
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小田 滋(おだ しげる、1924年大正13年〉10月22日 - 2025年令和7年〉9月4日)は、日本法学者。専門は国際法海法学位Doctor of the Science of Lawイェール大学・1953年)、法学博士東北大学・1962年)。東北大学名誉教授日本学士院会員文化功労者文化勲章受章、瑞宝大綬章受章。弁護士

概要 小田 滋おだ しげる, 生年月日 ...

東北大学法学部教授国際司法裁判所判事、国際司法裁判所副所長などを務め、1976年2月6日から2003年2月5日まで3期27年間にわたり国際司法裁判所判事であった。

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経歴

出生から修学期

1924年、北海道札幌市で生まれた[1]。10歳から台湾台北市で育った[1]台北高等学校尋常科・高等科を経て[2]東京帝国大学法学部政治学科に進学。1947年9月に卒業。1953年イェール・ロースクール博士課程を修了し、Doctor of the Science of Lawを取得。

研究者として

1953年6月、東北大学法学部助教授に就いた。1959年4月、東北大学法学部教授に昇格。1962年、博士論文『海洋資源の国際的規制』を東北大学に提出して法学博士を取得[3]

1968年国際司法裁判所ドイツ政府弁護人となった。1969年万国国際法学会準会員に選出。1975年、アメリカ国際法学会名誉会員となった。1976年2月、国際司法裁判所判事1979年、万国国際法学会正会員、財団法人東北大学研究教育振興財団副会長。1985年2月、東北大学名誉教授。1991年、国際司法裁判所副所長。1994年12月12日、日本学士院会員に選出された[4]

2024年10月22日に100歳となった[5]

2025年9月4日、老衰のため自宅で死去[6]100歳没

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受賞・栄典

研究活動・業績

専門は国際法で、海洋法を特に専門とした[10]。今となっては常識となった「shared resources」理論は当時は革新的なものであった。

国際司法裁判所との関係

初めて国際司法裁判所(ICJ)に登場したのは、1968年の「北海大陸棚事件」における西ドイツの弁護人としてであった。第三次国連海洋法会議では日本代表団のメンバーとして活動。ICJ判事には、東北大学教授時代に登用された学者出身の裁判官であった。27年という任用期間は、常設国際司法裁判所以来からも史上最長記録である。ICJの裁判所所長への機会もあったが、本人は一裁判官としてずっと任務を続けるという意思があり、これを断ったという。判決に付随する個別意見、反対意見を多数書いた。本人は、これは他の裁判官を説得出来なかった自分の未熟さゆえんであると回顧している[11]

門下生

家族・親族

著書

単著

共編著

  • 『現代国際法』石本泰雄寺沢一共著、有斐閣 1971
    • 新版 1986年
  • 『わが国裁判所の国際法判例』祖川武夫共著、有斐閣 1978
  • 『解説条約集』石本泰雄共著、三省堂 1983
  • 『日本の裁判所による国際法判例』祖川武夫共著 三省堂 1991

訳書

  • 『国際憲法:憲法の国際化』ボリス・ミルキヌ=ゲツェヴィチ英語版著、岩波書店 1952
  • 『憲法の国際化:国際憲法の比較法的考察』B・ミルキヌ=ゲツエヴィチ著、有信堂 1964
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外部リンク

脚注

関連項目

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