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小田稔

日本の天文学者 ウィキペディアから

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小田 稔(おだ みのる、1923年2月24日 - 2001年3月1日[1])は、日本天文学者宇宙物理学者。理学博士大阪大学論文博士・1956年)。東京大学名誉教授

概要 小田 稔(おだ みのる), 生誕 ...

人物

北海道札幌市出身[2]大阪帝国大学理学部物理学科菊池正士研究室出身だが、菊池の弟子渡瀬譲に師事したので、小田は菊池の孫弟子といえる[3]。はじめ実験物理学を専攻したが、その後電波天文学に転向し、さらに宇宙線物理学およびX線天文学を専門とするに至った。旺盛な好奇心と夢のような発想の持ち主で、研究者仲間から「星の王子さま」の愛称で呼ばれた[4]

生涯

1923年(大正12年)、北海道に生まれる[2][5]。1934年、台北帝国大学教授に就任した父に従って台湾に移住[2]

台北高等学校尋常科・高等科を経て[5]、1942年に大阪帝国大学理学部物理学科に進学[2]。大学時代の同級生にソニーの創業者・盛田昭夫がいた[2]。1944年、大阪大学を卒業し大学院特別研究生になるのと並行して、海軍技術研究所に入る[2]。海軍技術研究所時代に朝永振一郎の知遇を得る[2]

戦後は大学に戻り、1946年に大阪帝国大学理学部助手となる。1950年に大阪市立大学理工学部助教授に就任[2]宇宙線によるミューオンの相互作用を研究する[2]。1953年、マサチューセッツ工科大学 (MIT) に留学し、ブルーノ・ロッシに師事し宇宙線物理学を学ぶ[2]。1956年、日本に帰国し東京大学原子核研究所助教授に就任する[2]。同年12月、学位論文「核子カスケード及びその空気シヤワーとの関係について」により、理学博士大阪大学)を取得。1963年に渡米しマサチューセッツ工科大学客員教授に就任、再びロッシの下でX線天文学の研究に従事する[6]。1966年、帰国し東京大学宇宙航空研究所教授に就任[7]

1981年、文部省宇宙科学研究所の発足に伴い宇宙科学研究所教授[2]。1984年、宇宙科学研究所長に就任[2]。1988年1月、宇宙科学研究所長を辞任し退官。同年4月、理化学研究所第6代理事長に就任[8]、1994年、東京情報大学第2代学長に就任[9]

2001年3月1日、心不全のため東京都内の病院で78歳で死去した[1]

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家族・親族

父は医学者小田俊郎[2]、母・澪子は台湾の医学教育に尽くした堀内次雄の娘[10]。元国際司法裁判所判事で文化勲章受章者の小田滋は弟[2]

受賞歴・栄誉

業績

X線天体観測機「すだれコリメータ」を1963年に発明し[2]、X線源の精密な位置決定を可能にした[6]。これにより1975年に学士院恩賜賞を受賞した。

著書

単著

  • 『宇宙線』(裳華房 物理学選書 1960年、1972年に改訂版発行)
  • 『宇宙の探求』(中央公論社 中公新書 1970年)
  • 『星の誕生と進化・X線星と高密度星』(日本経済新聞社 別冊サイエンス 1973年)
  • 『X線天文学』(中央公論社 自然選書 1975年)
  • 『宇宙科学の最先端・宇宙科学の四半世紀』(第2回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会 1988年)
  • 『青い星を追って』(日経サイエンス社 自伝 1990年)
  • 『かに星雲の話』

編著

監訳書

  • 『宇宙・天文大辞典』(Pybil P.Parker他編 丸善 1987年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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