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小畑稲升

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小畑 稲升(おばた とうしょう、文化9年(1812年) - 明治19年(1886年))は、幕末から明治時代絵師

略歴

因幡国鳥取(現在の鳥取県鳥取市吉方)に生まれる。父は小畑幸四郎政成、母は中山玄柳の娘。初名は成章、のち広助といい、五石、興雲などの号を持ち、稲升もそのひとつである。

はじめ黒田稲皐に画技を学び、やがてその才能を認められ、弘化2年(1845年)の鳥取城二の丸新殿造営に際しては、屏風のほか数々の画を描いた。

弘化3年(1846年)、京に上って南画家・中林竹洞に師事して画を学び、その年の暮れには鳥取藩絵師として召し抱えられ、4人扶持を給せられた。江戸から明治へと変わる激動の時代に20年余り勤め、沖九皐と並んで鳥取藩最後の藩絵師となった。

自得寺(兵庫県美方郡新温泉町田井)の本堂全面を飾る表裏45面の襖絵は稲升の最高傑作と言われるもので、「遊鯉図」「雲竜図」「猛虎図」「芦雁図」「牡丹孔雀図」などの様々な画題が生き生きと描かれている。

晩年は岩美町荒金の中村家にもらい親として迎えられ、明治19年に75歳で没した。法名は稲升院無相寿量居士。

稲皐の師・土方稲嶺から続く鯉の絵を得意として、多数の作品を残している。特に「飛鯉図」などに見られる鯉が跳ね上がる一瞬の動きを捉えた作品に特色がある。

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作品

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脚注

参考資料

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