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小石川事件
2002年に東京都文京区小石川で発生した強盗殺人事件 ウィキペディアから
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小石川事件(こいしかわじけん)は、2002年(平成14年)7月31日に、日本の東京都文京区小石川のアパート室内で発生したとされる強盗殺人事件(以下、「本件」と記載する。)である[3][4]。被害者は当時84歳の女性であり、口に白色タオルを詰められた窒息死体で発見された[3][5]。部屋からは現金約2000円が奪われていたという[3]。
この事件で逮捕・起訴された男性I(当時22歳)は、公判より一貫して冤罪を訴えている[4]。他方で刑事裁判の第一審はIを無期懲役とする有罪判決を言い渡し、控訴審・上告審も一審判決を支持、無期懲役の刑が確定した[6]。Iは2005年の判決確定以降、千葉刑務所で服役をつづけている[6]。

本件は、日本弁護士連合会(以下、「日弁連」)による再審支援の対象事件の一つである[4]。第1次再審請求の棄却を受け、弁護団が第2次再審に向けた準備を進めている[7]。
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事件の概要
2002年8月1日朝、東京都文京区小石川二丁目のアパート一室で[8]、単身高齢女性が死亡しているのが発見された[4]。遺体は口にタオルを詰められており、死因は窒息とされた(死亡推定時刻は、前日7月31日の午後7時10分から午後10時ころまでの間とされている[9][注釈 1])。 現金2000円入りのがま口財布が見当たらなくなっていたことなどから[3]、警視庁捜査一課と富坂警察署は強盗殺人事件と断定し、特別捜査本部を設置した[2]。
後に犯人と認定された男性I(当時22歳)は、被害者と同じアパートの別室に居住していた[3]。事件発生から約1か月後の8月31日、Iは同アパートの別室から現金約82,500円を窃盗した[10]。翌9月1日にIは窃盗の容疑で逮捕され、9月12日には住居侵入、強盗の容疑でも逮捕された[10]。

その後、警視庁はIに対して本件についても取り調べを行い[1][3][10]、逮捕から110日目となる2002年12月19日、Iは本件への関与を自白した[10][11]。これを受けた特捜本部は、2003年(平成15年)1月12日、Iを強盗殺人容疑で再逮捕し[12]、東京地方検察庁は同月31日、Iを強盗殺人罪で起訴した[13]。
Iは公判当初から、一貫して無罪を主張した[3]。自白は強要されたものであると述べ、別件の窃盗容疑は認めたものの、本件への関わりを全面的に否認した[1][4]。
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確定判決の判断
一審では、まずIの自白の任意性[14]が中心的な争点となった[15]。確定判決は、被疑者段階におけるIの自白は、内容が具体的かつ詳細であり、死体の損壊状況や被害者方居室内の状況と整合し、関係証拠との矛盾もなく信用できるとした[16][17]。他方、公判におけるIの供述は内容が変遷しており、信用できないとした[17][18]。
この判断に加えて、裁判所は以下に示す5点を有罪認定の根拠とした[19][20]。東京地方裁判所(村瀬均裁判長)は2004年(平成16年)3月29日、検察官の求刑通り強盗殺人罪などの成立を認定、Iを無期懲役とする有罪判決を言い渡した[21]。
確定判決の判示する5つの有罪認定の根拠
- 本件現場からの指紋検出
- 死亡推定時刻のアリバイ不在
- アパートへの出入りの痕跡なし
- 金銭的動機の存在
- 事件翌日の金銭使用
Iは控訴したが、後にそれも棄却された[23]。これを受けて最高裁判所へ上告したが、2005年(平成17年)6月17日付で最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)から上告棄却の決定を出されたため、無期懲役の判決が確定した[24]。
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日弁連による再審支援決定
要約
視点
2007年2月20日、Iは服役中の千葉刑務所から再審支援の要請を行った[4]。これを受け、日弁連人権擁護委員会が調査を開始した[4]。調査は8年間に及び[4][5]、この間に多数の資料や新旧証拠が検討された[25][26][27][28][29]。日弁連は、調査の過程で得られた事実関係を踏まえ、確定判決の有罪認定には合理的疑いが生じており、併せて、浮上した新証拠が再審に必要な「証拠の新規性と明白性[30]」を満たすと結論づけた[31][32]。2015年5月8日、日弁連は理事会において、本件を再審支援対象として正式に決定した[4][33][34]。のちに野嶋真人(第二東京弁護士会[35])を団長とする弁護団が組織され、以下に記す再審請求手続きおよび弁護側主張を担っている[36]。
日弁連が支援する再審請求事件は、全国でも限られており[37]、本件小石川事件については、まだ十分に知られていないとの指摘もある[38]。しかし日弁連および弁護団は、後述するDNA鑑定結果、指紋付着や繊維片未着の矛盾等により、本件が冤罪である可能性は高いとの見解を示している[27][39][40][41]。他方で検察は確定判決の正当性を主張し、裁判所は再審請求棄却の判断を下している[41][42][43]。双方の主張対立は続いており、2022年12月の第1次再審請求棄却以降も、弁護団が第2次再審に向けた準備を進めている[7]。
なお、日弁連が支援を決定した再審請求事件のうち、有罪判決の正当性を理由に支援をとりさげた例は過去に確認されていない[44][注釈 2]。
5つの有罪根拠への弁護側反論
再審請求においては、確定判決の有罪認定に対し、新証拠によって合理的疑義を示すことが求められる[30]。本件において弁護団は、後述する新証拠の提出と並行して、確定判決が判示する5つの有罪根拠についても、遺留指紋を除けば証拠価値は相当低いとした[46]うえで、以下のとおり反論した。
1 本件現場からIの指紋検出
Iの指紋は本件犯行時に付着したものではなく、本件数か月前、Iが被害者宅に窃盗目的で侵入した際についたものと推認するに足る合理性がある[47]。
→後述指紋検出への疑義を参照
2 死亡推定時刻のアリバイ不在
被害者の死亡推定時刻は、午後7時10分から午後10時ころとされている[9]。確定判決は、本件当日のIに、午後9時過ぎから同10時前後のアリバイがないことを有罪根拠のひとつとした[20][注釈 3]。しかし被害者の死亡推定時刻には幅があり、そもそも判決の判示する午後9時過ぎから10時前後に、本件犯行が行われたことを裏づける客観的証拠は存在しない[48]。
3 アパートへの出入りの痕跡なし
本件当日、アパート東側の道路は午後9時から翌朝5時30分まで工事により通行止めとなり、警備員が配置されていた[49]。確定判決はこれを根拠に、本件は外部より第三者が侵入して起きた犯行ではないと推認した[49]。しかし死亡推定時刻の幅[9]を考慮すれば、午後7時10分から同9時までの間に外部の者がアパートに侵入し、犯行に及んだ可能性は排除できない[49]。
また警備員らは事件当日、本件アパート前で若い男女が会話していたことは証言しているが、それ以外の者の出入りの有無については一切供述していない[49]。加えて夜間であり、視認状況はよくなかった[注釈 4]。
そもそも警備員らは、アパートへの出入りの監視目的で配置されたわけでなく、アパート住人についての情報も持っておらず、仮に外部の者が出入りしていたとしても、それを正確に認識、記憶して捜査官に供述するのは困難である[49]。
4 金銭的動機の存在
確定判決は、Iに金銭目的という動機が存在したとしているが[51]、仮に動機があったとしても、強盗などの強行犯の前科がないI[52]が強盗殺人を犯すほど、切迫して追い詰められた状況にあったことを示すものではない。 確かにIには経済的な余裕がなく、父に対する借金や金銭目的による窃盗の余罪も存在していた[51]。しかしこれらを背景としても[52]、Iが強盗殺人にまで及ぶとの推認は成り立たない。
5 事件翌日の金銭使用

確定判決は、Iが本件当日に所持金がなかったにもかかわらず、翌日にコンビニで千円札を使用して買物をしていたことを、有罪根拠のひとつとした[53]。 Iは当初、千円札について「父から交通費としてもらった」と供述していた[54]。しかし取調官から「父は金を渡した事実はないといっている」と告げられると[55]、「入手先は不明」と供述を変え、公判では再び「父からの交通費である」とした[54]。判決はこの供述変遷を不自然とし、父や恋人の記憶に残っていないのも理解しがたいと判示した[55]。
しかしながら、Iが初めてこの件を供述したのは、2002年9月15日である[54]。問題とされたコンビニでの買い物は同年8月1日と、1か月半も前の話であり、わずか千円の記憶が曖昧になるのはむしろ自然である[54]。また判決は、「もし父から受け取ったのであれば、恋人や父も記憶していてしかるべき」とする[55]が、父自身は、「渡したことを記憶してはいないが、渡していないともいえない」と証言している[56]。
さらに当日の映像には、Iが千円札でカップ麺を購入し、釣銭を恋人に渡す様子が映っていた[56]。Iが犯人であり、本件で手にした千円札を使用したならば、釣銭は自身で保持するのが自然であり、この行動はむしろ、恋人や父から得た金を使ったというIの供述と整合的である[56]。以上からすれば、Iが使用した千円札を本件で手にしたとの推認は成り立たず、Iが犯人であることを裏づける証拠とはならない[57]。
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弁護側の主張する新証拠
要約
視点
8年におよぶ調査の末、弁護団が明らかにしたとする新証拠のうち、主要なものは以下に記す4点である[58][59][60]。
- 未知のDNA型の検出
- 指紋検出への疑義
- 繊維鑑定の矛盾
- 大腿部裏の傷
弁護団は、これら4点を再審請求における中核的主張と位置づけている[27][61][62]。
未知のDNA型の検出
数ある新証拠の中でも、弁護団が本件再審請求の核と位置づけるのが、2013年3月18日付で筑波大学教授(当時)の本田克也が作成したDNA鑑定結果報告書(以下「本田鑑定書」)である[63][64][65]。後述の本田鑑定書では、犯行凶器とされた白色タオルから「未知のDNA型」が検出され、それが犯人とされたIのDNA型と明確に異なる事実が示されている[66][67]。弁護団は、この本田鑑定書がIの無実を証明するとともに、真犯人の存在を示唆すると判断した[66][68][48]。
犯行態様とDNA型
確定判決は、Iが被害者の口腔内に白色タオルを押し込み、気道閉塞により窒息死させたと認定している[69]。この犯行態様によれば、Iは抵抗する被害者を押さえ込み、素手でタオルに触れ[注釈 5]、強い力で長時間口腔内に押し込んでいる[70]。そうであるなら、タオルにはIの皮膚・垢等の細胞成分が付着し、IのDNA型が検出される可能性が高いとされる[63][72]。これは弁護団からの要請を受けた本田が、ミトコンドリアDNAに関する法医学の専門家として示した見解である[33][70][72][73]。
実際に、確定審の吉井富夫作成によるDNA鑑定書(以下「吉井鑑定書」)には、被害者の口腔内に押し込まれていた白色タオルB部[注釈 6]から、被害者のDNA型に加え、被害者以外の成分が混入していたことが記載されている[50]。しかしこの成分、すなわち「未知のDNA型」の出どころについて、検察官は立証を行わず、Iとの関係も争点とすらされず、確定判決でも一切触れられてはいなかった[50][75][76]。
具体的調査
こうした経緯を踏まえ、弁護団は犯行凶器のタオルから検出された「未知のDNA型」が、犯人とされたIのDNA型と一致するか否かを検証した[77][78]。千葉刑務所に服役中のIから手指の爪、およびIが逮捕前に使用していた白色長袖シャツ(Iの血痕付着)を入手し[50]、さらには遺体発見時、被害者の口腔からタオルをとり除いたIの恋人の父(以下、「父」)の口腔粘膜試料も取得した[注釈 7]。これらを用いて、本田にミトコンドリアDNA-HV1型による鑑定を依頼した(以下「本田鑑定」とする)[79]。
本田鑑定
本田鑑定では、被害者の心臓血(被害者DNA型)を基準として、Iの長袖シャツ(血痕付着)、Iの爪、父の口腔粘膜、および白色タオルB部から検出された、「未知のDNA型」を比較した[80]。鑑定結果は以下のとおりである[80]。
この表1は、被害者、I(長袖シャツと爪)、父、そして白色タオルB部の各DNA型を一覧で比較したものである[81]。この比較表により、タオルB部に混入していた「未知のDNA型」が、Iや父のDNA型と異なることが示されている[81]。加えて本田鑑定は、Iと「未知のDNA型」との比較について、下記の表2でより端的に示した。
I(爪)のDNA型と白色タオルB部から検出された「未知のDNA型」を、被害者DNA型を基準として比較したところ、Iの単一の塩基とタオルB部の混合型DNAには、6つの塩基位置で明確な相違が確認できる[82]。これらの検証結果を受けて本田は、「表に示したように、他の塩基でも明瞭に異なる部分が複数存在するので、16223位Tと16232位Cを特徴とする成分(未知のDNA型)は、I由来ではありえない」(本田鑑定書5ページ)と結論づけた[82][注釈 8]。
また同様に、本田鑑定が父とタオルB部のDNA型比較を詳細に示したのが下記の表3と表4である[82]。
被害者の塩基(C)に対し、タオルB部ではCとTの混在(CT)が検出されており、一方、父もCのみである。
白色タオルB部の塩基は被害者と一致するが、父とは明白に異なる。表3の結果とあわせ、本田は、「タオルB部の成分は父由来ではありえない」と結論づけた[82]。
- 未知のDNA型をめぐる検証
本田は、抵抗する被害者の口にタオルを押し込む態様であれば、強い摩擦により犯人のDNA型がタオルに付着する可能性は高いとし、実際にタオルからは犯人を推認させる「未知のDNA型」が検出されていた[33][70][72][73]。そしてそのDNA型は、Iに由来するものではないことが本田鑑定により明確に示された[78][86][87]。弁護団はこの専門的知見および検証結果は、Iの犯人性を否定する重大な事実であると位置づけた[72][88]。
さらに弁護団は、開示されている供述調書を調べ直した[66]。着目したのは、本件の前日、被害者宅を訪れた介護ヘルパーAの証言である。Aによれば、被害者が汗をかいていたため、白色タオルで被害者の体を拭き、水洗いしたあとにタオルを室内に干したとされる[66]。本件被害者宅には、少なくとも5名のヘルパーが出入りしていた[75]。供述調書によれば、A以外のヘルパー、また被害者宅を訪れる行商の女性[9]らの中で、白色タオルに触った可能性があると述べている者はいない[66]。
そこで弁護団は、Aの所在を調査し、Aの口腔内細胞を採取して、DNA型鑑定の協力を得ることに成功した[66]。本田鑑定の結果、白色タオルB部のDNA型はAのそれとも明確に異なり、また、AのDNA型もタオルからは検出されていないことが明らかとなった[66]。
この結果が示すのは、本件前日、最後にタオルに強く触ったAの細胞(DNA)が、水洗いにより消失したと推認できることである[89]。その状態のタオルから、「未知のDNA型」が検出されていた[89]。弁護団は改めて、このDNA型が本件犯行時、被害者の口にタオルを押し込み窒息死させた真犯人のDNA型である可能性が高いと判断した[87][90]。さらに弁護団は、Aの細胞が洗い流されていた以上、Aより以前にタオルに触れた者の細胞が残っている可能性は低い[89] としつつ、念を入れて、タオルに触れた可能性のある関係者を網羅的に調査した[91]。
その対象は、被害者方のホームヘルパー3名、被害者の知人、被害者方を訪問した行商人、遺体の第一発見者であり、被害者の隣室に居住する友人に及ぶ[39] [91][92]。結果、いずれの者のDNA型も、「未知のDNA型」とは明確に一致しないことが証明された[91]。
当該白色タオルは、高齢単身女性が日常的に自宅で使用していた私物であり、外部の者が使用、携帯、共有する性質のものではない[7]。このことからも、犯行時を別にすれば、見知らぬ第三者のDNAがタオルに付着する状況はほぼ生じ得ない[7]。これらの判断を基に、弁護団は検出された「未知のDNA型」が、真犯人の存在を示唆し、Iの無実を裏づける核心的な新証拠であると結論づけた[78][87][90][93]。
- 弁護側の主張
- 証拠価値
- 法的評価(白鳥決定の射程)
- 最高裁判所昭和50年5月20日決定(白鳥決定)は、再審開始の可否を判断するにあたり、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、「確定判決の事実認定について合理的疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠」であると定義した[99]。その上で、再審の可否は、新旧すべての証拠を総合的に評価することによって判断すべきとしている[99]。
- 今回提出された本田鑑定書は、まさに白鳥決定の定める、「確定判決の事実認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠」である。同決定が求める「新旧全証拠の総合評価」という枠組みに照らせば、本田鑑定の結果により、これまで有罪認定の柱とされてきたIの自白の任意性・信用性についても、新たな視点から再検討されるべきである[99]。
- 白鳥決定は、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の基本原則が、再審においても適用されると明言している[100]。本件では、激しい接触を伴う犯行態様にもかかわらず、凶器とされた白色タオルからはIのDNAが一切検出されていない[68]。むしろ、タオルに触れた関係者とも一致しない「未知のDNA型」が検出されているのである[68]。この点だけでも、Iの本件犯行認定に疑わしき事情が存在することは明白である[87]。これらの事情を総合すれば、本田鑑定書は再審請求の要件を明確に充足するものであり、再審開始を認めるに足る証拠であることは疑いの余地がない[101]。
指紋検出への疑義

被害者方の居室、小物入れ内の化粧瓶(スキンローション容器)からIの指紋が検出され、確定判決は、これを有罪認定の状況証拠のひとつとした[20]。 これに対し弁護団は、Iが本件発生の数か月前である2002年5月か6月に、被害者方に窃盗目的で侵入した事実を認めている点に着目した[87]。Iの供述によれば、この物色時に当該スキンローション瓶に触れた可能性があるとしている[87]。
弁護団は、Iが取調の警察官に当該窃盗行為の供述をしたのは、本件について追及を受ける前であることを重視した[87][注釈 9]。さらに、化粧瓶から指紋が検出されるよりも前になされた供述であり、あとから都合よく出されたものではないとしている[87]。
自白内容に従えば、Iは本件犯行時、小物入れの開き戸を開け、タンスの小引き出しも開けて内部を物色したとされる[103]。しかし小物入れの取っ手やタンスの前面、タンス内部のビニール袋など、そのいずれからもIの指紋は検出されていない[71][注釈 5]。また小物入れの前にはアルミ製のトランジスタラジオが置かれており、小物入れを開けて内部を物色するには当該ラジオをどける必要があるが、ここからもIの指紋が検出されていない事実を弁護団は指摘している[104][注釈 10]。
本件当日、犯行現場の文京区に隣接する千代田区の気温は、21時で29.8度に及んだ[71]。被害者方にエアコンはなく、室内は高温であったと推認できる[71]。弁護側が依頼した斎藤保鑑定士の鑑定結果によれば、Iが自白どおり激しい動きを伴う犯行[106]を行い、その後タンス類を物色したならば、発汗により指紋が付着する可能性は高いとされる[71]。実際に行われた再現実験では、Iの自白どおりの動作(抵抗する被害者を押さえつけ、長時間にわたり力を込めたうえで、タンス内部ほかを物色)を再現した行為者の指紋が、トランジスタラジオ、小引き出しの前面、引き出し内のポケットティッシュの袋等から明確に検出された[107]。
にもかかわらず、当該ラジオやタンスの前面、他接触が不可避であった箇所から、Iの指紋・掌紋は一切検出されていない[71]。仮にIが犯人であるならば、これらの部位から指紋が検出されないのは不自然かつ不合理であると弁護団は評価している[108]。
加えてかような状況下において、スキンローション瓶のみにIの指紋が残存していたという状況[109]も、極めて不自然であると弁護団は指摘する[108]。 すなわち、確定判決が有罪の根拠とした「化粧瓶に付着したIの指紋」について、弁護団は、本件当日の付着とは考え難く、本件発生の1〜2か月前、Iが窃盗目的で侵入した際に付着したと考えるのが合理的であるとしている[108][注釈 11]。
弁護団は、そもそもIが本件当日に被害者を殺害し、小物入れやタンス内を物色したとする自白じたいが虚偽であると指摘している[110]。Iは被害者を殺害しておらず、室内を物色しておらず、本件当日に被害者宅に侵入すらしていない。こうした事情を踏まえれば、化粧瓶に付着したIの指紋を根拠に、Iを本件の犯人と断定することには重大な疑義が生じる、というのが弁護側の主張である[111]。
繊維鑑定の矛盾
本件において、被害者の体や衣服から、Iの着衣の構成繊維が明確に検出されていない点が、Iの自白内容と矛盾すると弁護団は指摘している[47]。
確定判決によれば、Iは犯行時、立っていた被害者をうしろに引き倒したあと、自分の左肘を被害者の右胸あたりに当てて強く押さえつけ、被害者の口腔内にタオルを押し込んで窒息死させたとされている[103]。また取調段階の自白において、Iは「柔道の袈裟固めのような体勢で、被害者に体を密着させて押さえつけた」と述べている[48][112]。弁護団は、このような密着接触があれば、被害者の体や衣服からIの衣類の繊維が検出される可能性は高いと主張する[47]。

しかし実際には、捜査側作成の「関本鑑定書」で、「被害者の両手指・前頸部・両足底部から、Iが当時着用したとされる半袖シャツに類似した無色・青色木綿繊維の付着があった」と記載されているのみである[113]。また被害者の着衣に対しては、Iの着衣に由来する繊維の付着についての記載はない[113]。
この点について弁護団は、静岡大学教授(当時)の澤渡千枝に繊維鑑定を依頼した[113](以下、「澤渡鑑定書」とする。)。 澤渡鑑定書によれば、Iの半袖シャツに相当する布地(綿素材)は、1回の摩擦だけで、70本以上(任意の場所3点の合計)の繊維片が手指等に付着することが確認された[114]。また、被害者の着衣に相当する布地への繊維付着についても、摩擦往復1回という同条件下で、約20本、極めて容易に繊維が付着することが確認された[115]。
加えて澤渡は、関本鑑定書が指摘する、被害者の手指等から検出されたIの半袖シャツと「類似する」木綿繊維[113]についての検証を行った。顕微鏡写真による比較[114]の結果、被害者から検出された繊維と、Iが着用したとされる半袖シャツの繊維とでは、繊維の形状(木綿に特有のねじれや中央の凹み)や色調に明らかな差異があることが報告された[112]。
さらに弁護団は、Iのシャツは木綿と化学繊維の混紡である点を指摘している[115]。仮に木綿繊維が付着しているならば、化学繊維も検出されるはずであるが[115]、それが検出されていないことは、極めて不自然であるとしている[116]。
Iの自白が真実であるなら、被害者の体や衣服からは、Iの着衣の繊維片が明確に検出されるはずである[115]。それが一切確認されていないことは、Iの自白と矛盾しており、弁護団はかかる自白に証拠能力は認められないと結論づけた[117]。
大腿部裏の傷

被害者の両大腿部の裏側には、横に広がる線状の傷痕が確認されている[118]。これは臀部の下、左右の太もも裏にわたって水平に走る形状となっている。
確定判決のいうような、Iが立っていた被害者をうしろに引き倒し、自分の左肘を被害者の右胸あたりに当てて強く押さえつけ、被害者の口腔内にタオルを押し込む犯行態様[103]では、このような傷は生じ得ないと弁護団は指摘している[118]。
弁護団は、このような傷が生じた原因として、被害者が椅子に腰かけていた状態で引き倒された可能性を挙げている[118]。その際、椅子の座面や背もたれ等が大腿部の裏側に強く接触し、このような線状の傷痕が生じた可能性があると主張している[注釈 12]。
犯行再現実験
弁護側が作成した、2013年3月18日付の実験報告書[117]は、捜査機関が本件直後に作成した検証調書および現場見取図等をもとに、原寸大のシート上に当時の室内を必要な限度で再現し、Iの自白内容との整合性を検証したものである。
実験では、Iと同程度の身長の協力者をI役、被害者と同程度の体格を持つ人形を被害者役とし、犯行状況を自白どおりに再現した[117]。その結果弁護団は、Iの自白と現場の客観的状況との間に、複数の矛盾が存在すると結論づけた[117]。
第一に、本件犯行現場とされる被害者方居室は4.5畳ひと間である[90]。Iの自白によれば、「被害者が台所で洗い物か何かをしており、その隙に気づかれずに盗みに入れると考え侵入した[53]」とされている。しかし弁護団は、部屋全体を一望できる造りにおいて、この供述じたいがありえないとしている[119]。
また自白によれば、Iは被害者が自分に気づいた瞬間に背後から飛びかかり、後方に引き倒したとされる[120]。弁護団は、この自白を前提とする場合、被害者は一度Iの方向へ体を向け、その後に背を向けたことになり、犯人に気づいた直後に自ら背を向けるという行動はいかにも不自然であるとした[121]。
さらに被害者の遺体が倒れていた場所の左横には、籐製の低い椅子があった[121]。Iの自白では、被害者の右胸あたりに左肘を当て、自身の体の左側を被害者の左脇腹に押し当てるという体勢で犯行に及んだとされる[103]。しかし弁護団が行った再現実験の結果、Iがそのような体勢を取るには籐椅子の上に乗りかかる必要があり、実現は不可能であると報告された[121]。

なお、本件直後、Iの自白に基き警察の道場で行われた再現実験では、籐椅子の配置が実際の現場とは異なっていた[112][121][122] 。弁護団は、事件当時の椅子の配置を前提とすれば、Iの自白通りに犯行を行うことは物理的に不可能であると立証した[122][123]。
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自白の信用性および任意性
要約
視点
青色ズボンの存在と「犯人しか知り得ない秘密」の欠落
被害者の遺体には、上胸部から下腹部にかけて裏返しになった青色のズボンが不自然に掛けられ、その両先端は被害者の両肘下に挟まれていた[123]。弁護団は、 このような状況が偶然に生じたとは考えがたく、犯人が何らかの意図をもって配置した結果であると判断した[124]。
弁護団は、この青色ズボンにいかなる意図があるにせよ、犯人であればその理由を容易に説明できる点を重視した[123]。しかしIの自白には、このズボンについての言及が一切ない[48]。実際に警察官は、取調でIに対して、「被害者の上半身に何か乗せていないか」と尋ねている[123]。Iの返答は、「何回も考えましたが、乗せた覚えがありません」というものである[123]。
このような、犯人であれば当然に知り得るはずの重要な事実について言及がないことは、いわゆる「秘密の暴露」の欠落として、Iの自白の信用性を大きく減殺すると弁護側は捉えた[123]。同時に、Iが現場の状況を詳細に知り得なかった有力な傍証となり、Iが犯人であることに重大な疑問を生じさせるものであると主張している[123][125]。
自白の強要と取調の違法性
Iの自白は任意でなく、捜査機関による長時間の違法取調、虚偽情報、暴力、利益誘導を含む重大な人権侵害によりなされたものであると弁護側は判断した[110][31]。
2002年9月1日、Iは文京区小石川のアパート内で発生した住居侵入・窃盗容疑で逮捕された[3]。警察は、約1か月前に同アパート別室で起きた本件犯行もIによるものと疑った[4]。Iに対し、窃盗の起訴後の勾留期間を利用して、本件に関する取調を長時間くり返した[110]。
同年12月5日から13日にかけては、別件に関する取調が行われた[110]。計12通の供述調書が作成される中で、担当警察官はIに、「殺人認めろ。認めるなら殺人1本、認めないなら別件で再逮捕、起訴、その後殺人」とする利益誘導的な発言をくり返した[110][126]。同年12月12日から23日にかけては、12日間連続、合計77時間以上の取調が「任意」の名目で行われた[127]。
また取調の過程において、警察官がIに虚偽情報を伝えたことも弁護団は重視している[128] 。警察官は、「遺体の下にうさぎの毛が落ちていた。その毛をDNA鑑定したところ、お前の飼育するうさぎの毛と一致した」とIに告げ、この虚偽情報をもとに、Iに本件への自白を迫った[1][126][注釈 13]。
同年12月18日、警察官は「私がやりました」という書面を作成し、Iにそこへの署名押印を迫った[130]。 翌19日は、「自白するまでトイレに行かせない」という違法な強制手段をとったことが確定判決で認定されている[34][131]。さらに警察官はIの頭を平手で殴り、胸ぐらをつかむなどの暴行を加えたことも認定されている[34]。深夜24時まで続いた取調[130]で、Iの自白は引き出された[132]。
上述期間に作成された供述書等は、内容が明らかに被疑者取調に該当するにもかかわらず、すべて「参考人取調」の形式で作成されていた[127]。Iの取調を担当した警察官は、公判廷において、「取調は任意だった」と証言している[133]。
弁護側は、捜査機関が意図的に手続を回避し、形式上「任意」を装い強制取調を偽装したと主張している[127]。本件自白は捜査機関が別件勾留を利用して意図的にIを追いこみ、不当な利益誘導・虚偽情報・暴力的手段と、手続上の重大な違法を重ねた末に引き出されたものであり、その任意性、信用性には決定的な疑義があるとの見解を示している[31][132]。
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第1次再審請求
要約
視点

再審請求審(東京地裁)
2015年6月24日、Iの弁護団は東京地方裁判所(以下、「東京地裁」)に第1次再審請求を申し立てた[34]。13点の新証拠が提出された[4]が、弁護団が特に重視したのは以下の4点であった[25][134]。
- DNA型鑑定に関する新証拠
- 指紋に関する新証拠
- 繊維鑑定に関する新証拠
- 被害者の大腿部背面の傷に関する新証拠
これらは確定判決における有罪認定に合理的疑いを生じさせるものであり、再審開始の要件である新規性と明白性[30]を充足すると弁護団は主張した[58]。
加えて同年10月21日には、本件に関する以下の未開示証拠の開示を検察官に命じるよう、東京地裁に申し立てた[135]。
- DNA型鑑定結果
- 指紋関係
- 繊維鑑定関係
- 事件現場周辺の視認状況関係
- 犯行現場の客観的状況関係・犯行再現状況関係
- コンビニエンスストアで支払った現金関連
- 取調関係証拠
- 供述関係証拠
同年11月30日、裁判所と弁護人の二者協議が開かれた[90]。弁護側は裁判所に対して、証拠開示命令、確定記録・証拠物の早期取り寄せ、証拠散逸防止の措置を求めた[90]。2016年2月2日、検察官から再審請求に反対する意見書が提出され、弁護団はこれに対する反論書面を提出した[90]。弁護側が再審請求における中核となすDNA型鑑定に関する主張の対立は、以下のとおりである。
- 検察主張
- 弁護側反論
- 静岡大学教授(当時)の本田克也に依頼して、Iの自白どおりの犯行態様、タオルを口内に押し込んで窒息死させるという形で、犯人役のDNA型がタオルから検出されるか否かを検証した[66]。弁護人が被害者役になり、複数名の男性が犯人役となった結果、犯人役全員のDNA型がタオルから検出された[48][70][137]。
- 本田の意見書からもわかるとおり、検察官の主張は理論的根拠、論文、研究、実験結果等の科学的根拠を何ら示すことなく述べている独自の考えである[138]。
- 本件において、当該タオルに触れた可能性がある人物はほぼ調査済みであり、その全員のDNA型が、タオルB部から検出されたDNA型と不一致である[139]。しかしひとりだけ、連絡がつかないホームヘルパーAがいる[140]。Aに関する情報は検察官が保持するはずであり、住所ほかの開示を求める[140][注釈 15]。
- 三者協議期日の開催と証拠開示をめぐる攻防
- 検察・弁護側の主張対立を受けて、裁判所は2016年7月11日、第1回三者協議期日[注釈 16]を開催した[90]。弁護側は証拠開示の必要性を複数の鑑定(DNA型・指紋・繊維片)に即して主張したが、検察官は応じる気はないとし、裁判所も証拠開示の勧告をするにはいたらなかった[142]。
- その後の三者協議では、検察官の反論準備の遅れによる進行の遅延なども起きる中、弁護団は裁判所に証拠開示命令を発するようくり返し求めた[90]。2017年5月25日には、弁護団が東京地裁に補充書を提出し、ホームヘルパー関係証拠[注釈 17]について開示命令を申し立てた[75]。
- 同年10月10日、裁判所は検察官に対し、本件に関するDNA型、指紋、繊維に関する捜査書類が存在する場合、開示可能かを明らかにするように求めた[124]。検察は2018年2月21日、一部の証拠の存在を認めた上で、「弁護人提出証拠の明白性の判断に資するものではない」として、開示は不要との意見書を提出した[124]。
- 2018年2月26日の三者協議において、弁護団は裁判所に対し、証拠開示を勧告するよう強く働きかけた[124]。結果裁判所はその席で、検察官に対して、同年3月末日までに下記4点、存在する証拠については任意の開示を促した[122]。
- DNA型鑑定関係証拠
- 指紋関係証拠
- 繊維鑑定関係証拠
- 犯行現場の客観的状況を示す資料等
- これに対して検察は、下記4点を任意に開示するにいたった[122]。
- 2通の鑑定嘱託書写しおよび1通の鑑定書(DNA型関係証拠)
- 3つの証拠(指紋関係証拠)
- 鑑定嘱託書謄本1通、鑑定書1通(繊維鑑定関係証拠)
- インデックスプリントしたものおよび現像した写真(犯行現場の状況に関する証拠)
本件の再審請求申立からすでに2年半以上が経過しており、弁護側はようやく証拠開示において一歩前進したと受け止めた[124]。だが同時に、開示された証拠はまだ一部に過ぎず、さらなる未開示証拠の開示を求めた[122]。これまでも多くの再審事件において、検察官から新たに開示された証拠から事件の真相が究明され、再審無罪が果たされている[122][124][143][144]。弁護団は、再審開始に向けたさらなる証拠開示を粘り強く求める姿勢を見せた[122] 。
しかしそれ以降、弁護団が求めつづける証拠開示に対して、検察官は強い抵抗を示した[145]。弁護側が求めたホームヘルパーの情報開示についても、検察官は「不見当」の意見を返した[144]。弁護側は具体的な内容について検察庁に釈明を求めたが、検察官は「これ以上の回答を行う義務はない」との回答に終始した[144]。
2019年7月31日までに、三者協議期日は計15回開かれた[145]。検察官は新たな証拠開示に応じる姿勢を見せず、裁判所も追加の開示勧告は考えていないとの回答に終始した[145]。2020年に入るころには、裁判所から「弁護側の主張は終わりですか?」と審理の終了を示唆する発言が見られ[146]、再審請求審の判断が近づいていることが示された。
裁判所の判断(東京地裁 2020年3月31日決定)
東京地裁は、弁護団の求めた事実調べや専門家の証人尋問等を実施することなく、弁護側が提出した新証拠の価値を否定したうえで、再審請求を棄却した(裁判長:小森田恵樹)[41]。
まず、白色タオルからIのDNA型が検出されなかった点について、裁判所は「DNA型が混合していた場合、IのDNA型が検出されずとも、その鑑定結果から、IのDNAが含まれていないものと断定はできない」とした[136]。この見解はすなわち、「DNA型が検出されなくても、Iがタオルに触れていない証拠にはならない」とするものであり、弁護側はDNA型鑑定の意義そのものを否定するとして強く非難した[147]。また裁判所は、上記見解に依拠したうえで、「Iやヘルパー、行商人等のDNA型が検出されていないとはそもそも断じ難い」と判示した[136]。
指紋に関して、裁判所は、
- 汗の分泌量が多すぎて指紋が付着しない可能性
- トランジスタラジオについた指紋が、ラジオの穴により連続性を欠いて現場指紋と扱われなかった可能性
- 指紋が重複して採取不能だった可能性
は、いずれも否定できないとした[148]。 この判断は、「汗の分泌が指紋付着の蓋然性を高める」といった弁護側主張[71]を排斥するものであり、主張の根拠として弁護側が証人要請した指紋鑑定士の意見を聞くことなく、検察主張のみに依拠したものであった[149]。
また繊維について、裁判所は「自白の犯行態様を前提とすれば、被害者がIの前腕部や手をつかんでの抵抗が合理的に考えられ、被害者がIの衣服に触れた可能性は高くなく、よって、被害者の手足からIのシャツの繊維が検出されなかったとしても、Iの自白と矛盾するとはいえない」と判示した[148]。
さらに籐椅子の位置に関する再現実験についても、裁判所は「使用された人形と被害者の体型は明らかに異なる」として、「弁護側が正確な再現をしたとはいえず、かかる弁護人の主張を踏まえても、Iの自白が不自然とはいえない」とした[148]。
これらの判断が依拠するのは、すべて検察側が提出した鑑定人の意見書であった[138]。弁護側は、「科学的根拠を何ら示すことなく述べている独自の考え」であるとして[138]、その判断は明らかな誤りであるとの見解を示した[41]。また、弁護側が強く求めたヘルパーAの住居に関する情報開示にも、裁判所は必要性を認めなかった[150]。
2020年4月6日、弁護側は即時抗告し、判断は即時抗告審に持ち込まれた[70]。
即時抗告審(東京高裁)

即時抗告審は東京高等裁判所第2刑事部(大善文男裁判長)に係属し[151]、最大の争点は、再審請求審(以下、「原審」とする。)に引きつづき、DNA型鑑定の科学的評価をめぐる弁護団と検察官の対立であった [151][152][153] 。
DNA型に関する弁護側主張と証拠開示請求(三者協議開催前)
弁護団は、原審が「DNA型が混合していた場合、IのDNA型が検出されずとも、その鑑定結果から、IのDNAが含まれていないものと断定はできない[136]」とした判断を最大の問題点とした[70][148][153] 。この判断は、専門知識を有さない裁判官が、弁護側鑑定人の知見を聞くことなく、検察側鑑定人の意見書のみに依拠して下したものであり、当該意見書自体にも科学的・学術的根拠が何ら示されていないと厳しく指摘した[70][139][147] 。
確定判決によれば、Iは被害者の口内にタオルを強く押し込み、長時間押さえつけて窒息死させている[73][154] 。このような犯行態様であれば、凶器のタオルにはIの皮膚細胞などが付着する可能性は高いとされ、また、それは本田克也の検証実験により裏づけられている[48][70][137]。しかし本件において、タオルからIのDNA型は検出されておらず、弁護団は当初よりこの事実を重視してきた[77][87]。
そこで弁護団は、改めて本田に混合DNA試料を用いた検出実験を依頼した[138] 。原審が依拠した検察側の見解では、「例えば4名のDNAが混合した試料[注釈 18]において、特定の塩基が3:1の混合比になる場合、1/4量の塩基は薄まって不検出になる」とされていた[136]。しかし、本田の実験結果において、この見解が誤りであることが明確に証明された[138] [156]。すなわち、4名の混合試料からのミトコンドリアDNA検査は可能であり、3:1の混合比でも1/4量の塩基が検出されることが示された[136][138][157] 。
この鑑定結果は、犯行凶器とされたタオルからIのDNA型が不検出であったことを、「本当はIのDNAがタオルに付着していたが、一緒に付着した他者のDNAが多いことにより、IのDNAが薄まって鑑定で拾えなかった可能性がある[148][158]」とした原決定の誤りを示すと同時に、Iの無実をより明確に示すと弁護団は評価した[136] [158][159]。そこを踏まえた意見書と、当該実験結果をまとめた本田克也の鑑定書を、第1回三者協議期日に先立ち東京高裁に提出した[136]。
さらに弁護団は、原審で不要とされたヘルパーAの情報開示の必要性を、改めて強調した[150]。 凶器とされたタオルからは、IのDNA型が検出されていないだけでなく、被害者のものとも異なる「未知のDNA型」が検出されている[33][87][67] 。弁護団は、この「未知のDNA型」が真犯人に由来する可能性が高いと当初から主張してきた[66][68][48]。 本件当時、タオルに接触した可能性のある人物のうち、Aを除く全員からDNA型の提供を受けており、いずれも「未知のDNA型」とは不一致の結果が得られている[160]。この状況下で、情報未開示のAのDNA型が不一致となれば、「未知のDNA型」は、Iともタオルに触れた全関係者とも異なり、もはや真犯人以外には考え難いと弁護団は主張した[150]。
第1回三者協議期日開催
2021年3月26日、即時抗告審の第1回三者協議が実施された[150] 。弁護側が新証拠としたDNA型の実験結果について、検察官は外部の専門家に相談のうえ、反論の書面等を提出するか検討中であると答えた[161]。あわせて裁判所から、弁護団に証拠開示請求についての確認があり、弁護人は開示の必要性、特にAの住所を開示する重要さについて強調した[162]。この点について、検察官からは開示請求に理由がない旨の意見が出され、裁判所は、同期日では証拠開示についての判断を示さなかった[150]。
検察主張と弁護側反論
同年6月25日、検察官は意見書と、科警研の研究官・関口和正からの聴取結果を記載した報告書を東京高裁に提出した(以下、「関口報告書」とする)[161]。同年7月2日には、関口報告書に添付された英文資料の翻訳文を追加で提出した[136]。検察官は、関口報告書および英文資料に基づき、本田克也の鑑定方法に疑問を呈し、原決定の見解の正当性を主張した[136][161]。
同年8月25日、弁護団はこれに反論する書面を提出し、あわせて本田の新たな意見書を証拠提出した[136]。弁護団および本田は、関口報告書の見解と引用の海外論文は、本田の鑑定を否定できておらず、むしろ鑑定結果の正しさを裏付けるものであると指摘した[136][163]。また弁護団は、従前よりDNA型の専門家として本田克也、繊維片の専門家として澤渡千枝の証人尋問を請求していたが、新たに今回、被害者の大腿部裏に残された傷跡に関して専門的知見を有するとして、九州大学教授(当時)の池田典昭の証人尋問を請求した[136]。
第2回三者協議期日と求釈明
※求釈明とは、相手方の保有する証拠や情報について、裁判所に説明・開示を促すよう申し立てる行為である。もともとは民事訴訟の用語だが、刑事再審実務でも慣用されている。本件では弁護団が裁判所に対して行った求釈明(申立て)と、裁判所が検察官に対して行った求釈明(指示)とがある[164]。
2021年10月4日、第2回三者協議が開催された[163]。この席上、検察官は弁護団からの関口報告書への反論に対し、さらに反論するか検討中であると述べた[163]。弁護団は、凶器のタオルから検出された「未知のDNA型」は真犯人由来である可能性が極めて高く、当該タオルに触れた可能性のある全関係者のDNA型を検査する必要性を指摘した[150]。これは原審からくり返されてきた求釈明の申立てであり[160]、残されたひとりである、ヘルパーAのDNA型検査の必要性を弁護団は改めて強調した。
翌日の10月5日、東京高裁は検察官に対し、ヘルパーAの住所が記載された書面の有無を確認し、存在する場合は弁護人に開示するよう求釈明を行った[165]。これは2016年に弁護団が申立てたAの情報開示[75]に対し、5年を過ぎてなされた求釈明であった。しかし検察官は、書面の存在は認めつつも、その開示を拒否した[158]。理由として、AのDNA型がタオルから検出された「未知のDNA型」と不一致となったところで、真犯人がいるという推論は成り立たずに意味がないと述べた[166]。また検察官は、証拠開示に応じることは確定判決を全面的に見直すことになり、実質「第4審」を開くに等しく、確定判決の法的安定性を損なうため許されない、との主張を展開した[38][166]。
この対応を受けて、弁護団は裁判所に意見書を提出した[166]。求釈明を拒否した検察官の行為は、裁判所の訴訟指揮権に対する侵害であり、また、拒否理由としてAのDNA型鑑定に対する不要論を述べているが、それを判断するのは裁判所であり、検察官ではないと厳しく批判した[166][注釈 19]。
検察を批判しながらも、弁護団は独自の調査を再開した[158]。新たな切り口から調査をやり直した結果、遂には長年把握できなかったAの所在を探し当てた[158]。2022年2月11日、弁護団はAに事情を説明し、DNA型調査への協力に成功した[168]。
「欠けていた新証拠」の入手と弁護団の主張
本田克也の鑑定において、AのDNA型も「未知のDNA型」とは不一致との結果報告がなされた[158][168]。この鑑定結果を基に、弁護団はタオルB部から検出された「未知のDNA型」は、真犯人由来であることがはっきりしたと主張した[158]。これに対する検察の反論は抽象の域を出ないとして、弁護団はIが犯人ではないと断言し、きたるべき即時抗告審の結論を待った[158]。
裁判所の判断(東京高裁 2022年4月7日決定)
東京高裁は原審の棄却決定を支持し、再審開始を認めない決定をした(裁判長:大善文男)[42]。原審と同様に、弁護側が求めた専門家の証人尋問等は実施されず、弁護団提出の新証拠に価値を認めない決定であった[92][169]。
最大の争点となったDNA型鑑定をめぐっては、ミトコンドリアDNAに関する法医学の専門家である、検察側の関口和正と弁護側の本田克也、両者の見解の信頼性や妥当性が問われた[170]。東京高裁は関口の見解に依拠した検察主張を採用し、以下のように判示した[171]。
「白色タオルB部からIのDNAが検出されなかったとしても、Iが自白どおりの方法で犯行に及んだ際に、そのB部に触れなかった、あるいは触れたとしてもDNAを検出できるだけの生体試料が付着しなかった可能性があるため、タオルB部からIのDNAが検出されなかったことが、Iの犯行を否定する根拠になるとは限らない」[171]
あわせて裁判所は、検察官の主張を追認する形で、
- DNAが混合型の場合、Iの反応がわずかで特徴点として認められなかった可能性[注釈 20]
- ノイズとピークが混同された可能性[注釈 21]
- 試料について採取、保管、検査等の場面でコンタミネーション[注釈 22] が生じた可能性
を指摘したうえで、「タオルB部からIのDNAが検出されなかったとしても、IのDNAが付着していなかったと断定することはできない」と結論づけた[100]。
また裁判所は、弁護側が凶器のタオルに触れた可能性のある全関係者(複数のヘルパー、行商人、被害者の友人、および遺体発見者等)からDNAを採取・鑑定し、検出された「未知のDNA型」といずれも一致しないことを立証した点についても、「これらの者以外の、第三者に由来している可能性も否定しきれない」として、弁護側の「未知のDNA型は真犯人に由来する」との主張を排斥した[7][100] 。
さらに、その他に弁護側が主張した指紋、繊維片未着、被害者の大腿部裏の傷に関する矛盾等も、裁判所は弁護側の依拠する法医学の専門家の見解を排斥し、再審決定に必要な証拠の新規性と明白性[30]を認めなかった[170]。
この決定を受けて、弁護団は即日司法記者クラブで会見を開いた[175]。「裁判所は本田教授のDNA型鑑定を理解できず、不当な決定を下した」と説明したうえで、「警察に強要されたIさんの虚偽の自白しかない」「自白が信用できるのか。IさんのDNA型が検出されていない。繊維片も出ていない」と事実と証拠を無視した決定を批判した[175]。会見に出席したジャーナリストの江川紹子は、「科学的な鑑定の証人尋問が行われなかったり、それが無視されるのは問題、裁判所のあり方が問われる」と指摘した[175]。
後日弁護団は、東京高裁が弁護側の本田克也でなく、検察側の関口和正の見解を採用したことについて、「両者の見解を紹介しただけで、なぜ関口氏の見解を採用するのか科学的合理的な説明はまったくなされていない[74]」と指摘し、指紋や繊維片に関する判断も同様であるとしたうえで、「これは最初から結論ありきの棄却決定であり、著しく正義に反した事実誤認による認定だ」と強く非難した[169][170]。
重ねて弁護団は、裁判所が抽象的な可能性を列挙して弁護側の新証拠を排斥したとして、これは最高裁の白鳥・財田川決定の考え方に反し、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に抵触するもので、憲法31条にも反するとの見解を示した[170]。
この見解を基に、弁護団は東京高裁の決定が不当であり、Iの再審請求が正当であることを明らかにするとして、2022年4月12日、最高裁判所に特別抗告を申し立てた[170]。
特別抗告審(最高裁)

特別抗告審は最高裁第3小法廷(渡邉惠理子裁判長)に係属し、原審および即時抗告審の判断の妥当性が問われた[151]。弁護団は、東京高裁の判断に対抗するにあたり、新たなDNA型鑑定の専門家である、東邦大学医学部教授の黒崎久仁彦に意見書の作成を依頼した[74]。黒崎は「科学的証拠とこれを用いた裁判の在り方」(司法研究所編『法曹界』)の協力研究員でもあり、同書ではDNA型鑑定に関する幅広い科学的知見が述べられ、裁判所からの信頼も厚いとされる専門家であった[176]。
黒崎は、捜査段階の「吉井鑑定書」で示された混合試料、すなわち被害者のDNA型と「未知のDNA型」が混合した白色タオルについて、各ピークの高さと、その高さ割合について検証した[177]。結果として、「未知のDNA型」は、十分にDNA型が検出できるだけの混合割合で存在しており、これらの混合ピークにノイズであると指摘できる特徴や傾向は見出だせないと述べた[177]。
この表は、主ピーク(被害者DNA型)の高さに対して、混合ピーク(未知のDNA型)の高さ割合(%)を示したものである[177]。
DNA型鑑定においては、混合ピークの高さが主ピークの20%以下である場合、スタッターやノイズとして扱われ、真のDNA由来ではない可能性があるとされている[178][179]。しかし表に示すとおり、黒崎が再評価した白色タオルの混合ピークは、いずれも高さ割合が20%を上回り、最大で69%にまで及んでいる。この検証結果を基にして、黒崎は「未知のDNA型」について、被害者とは別の、特定の人物に由来する可能性が高いことを前提にして科学的な検討が求められると結論づけた[177]。
この結果を受けて、弁護団はタオルB部にはノイズではなく、明確に識別可能なDNA型が検出されたと認識した[177]。そしてそのDNA型は、Iとも、事件と関係なくタオルに触れた全関係者とも一致していない[7][93]。これらの科学的根拠を踏まえ、弁護団は改めて、タオルB部から検出された「未知のDNA型」は、真犯人に由来する可能性が高いと結論づけた[177]。
また2022年8月、弁護団は本件が発生したアパートの居室を家主から借りて[注釈 23]、Iの自白内容に沿った現場再現を実施した[181]。ここで弁護団は、改めて4.5畳の狭さにおいて、室内に被害者がいると知りつつ「バレずに盗めると思った[53]」という自白の非現実性、また、居室の狭さと配置された籐椅子の存在等から、「袈裟固めのような体勢で押し倒す[112]」ことが不可能であることを立証した[181][注釈 24]。
同年10月27日、弁護団は黒崎の意見書および現場再現報告書等を新証拠として最高裁に提出し、Iが犯人であることに合理的な疑いが生じており、再審開始が決定されるべきであると求めた[181]。また同年11月15日、弁護人2名で千葉刑務所にIを訪ね、最高裁で逆転勝利をつかむための大きな一歩を踏み出したと報告した[181]。
裁判所の判断(最高裁 2022年12月12日決定)
最高裁第3小法廷(渡邉惠理子裁判長)は、12月12日付で、以下のとおりIの再審請求を棄却した[43][183]。
最高裁の判断としては、最高裁は憲法違反や判例違反を審理する場であり、本件の特別抗告は事実誤認の訴えであるため、上告理由に当たらないとするものであった[183]。これは弁護団が黒崎久仁彦の意見書ほか新証拠を提出してから1か月半後の棄却決定であり、弁護団は「内容ゼロ、真摯な検討もなし、棄却決定を先に決めて新証拠を無視したとしか考えられない」と厳しく非難した[184]。これを受けた日弁連は、本決定は極めて不当であり、容認できないとの声明を出し、すでに弁護団が、第2次再審請求に向けた準備を進めていることを公表した[185]。
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第2次再審請求に向けた動き
要約
視点
裁判所判断と弁護側動向
Iの第1次再審請求は、棄却決定が確定した[7] 。そこでの大きな争点は、被害者の口に詰められていた白色タオルから、被害者およびI、ならびに被害者宅に出入りしていたすべての関係者と一致しない、「未知のDNA型」が検出されたという点であった[186]。このDNA型鑑定は、筑波大学医学部の本田克也、および東邦大学医学部の黒崎久仁彦により実施・分析された[151][176]。黒崎の意見書では、混合DNA型のピークの高さや割合を踏まえ、「被害者以外の人物のDNA型が存在する可能性が高い」とする科学的見解が示された[187]。他方で、第1次再審請求における裁判所判断は、当該「未知のDNA型」の由来やIの犯人性について、「検討の必要はない」とするものであった[187]。
弁護団は、この判断を不当かつ明らかな誤りであると主張し、第2次再審請求に向けた準備を進めている[185]。過去に提出した証拠の精度向上は容易だが、それでは再棄却のリスクがあり、これまでとは異なる観点からの新証拠が不可欠であると述べている[188]。現段階で詳細は差し控えるとしつつ、弁護団は、DNA型が最も重要な論点であることは変わらないとの認識を示したうえで、新たな新証拠獲得の検討を進めている[7] [188]。
支援と評価
2017年4月13日、日本国民救援会に「小石川えん罪事件の再審を支援する会」が発足し、署名活動や裁判所要請、街頭宣伝、現地調査、犯行再現実験その他、活動と情報発信を行っている[189]。 また布川事件の当事者として知られる、社会運動家の桜井昌司(故人)も、生前は小石川事件に言及し、支援の姿勢を示していた[190]。桜井は事件現場の状況やIの供述の不自然さ、証拠の欠落などを指摘したうえで、「この小石川事件も、必ず再審で無罪になる日が来る」「ホントに日本の司法は狂ってるよ」などと述べ、日本の冤罪構造の一端として本件をとりあげ、問題視していた[190]。
さらにオウム真理教事件の報道などで知られるジャーナリストの江川紹子も、本件に対し冤罪の可能性ありとの見解を示している[191]。2018年4月26日に開催された「小石川えん罪事件の真相を開く会」で講師を務めた江川は、のちに支援会に下記メッセージを寄稿している[191]。
有罪判決は、化粧水の瓶の指紋と自白を、有力な証拠としています。しかし、瓶のあった戸棚を物色したなら、扉やその前に置いてあるラジオにも指紋がついていなければ変です(瓶の指紋は、過去に被害者宅に盗みに入った時についた可能性があります)。現場には、他にI氏の指紋はなく、彼の毛髪等も落ちていません。被害者の口に押し込んだタオルにも、彼のDNAはなく、それどころか他人のDNAが検出されたとのこと。彼が犯人ならありそうな証拠がなく、自白が有力な証拠になっているという点は、再審無罪となった布川事件にも似ています。当時の芳しくない生活態度ゆえに、別件で逮捕・起訴され、身柄拘束が続く中、捜査員から虚実とりまぜた追求を受けて"自白”に追い込まれたのも同じです。本件でも、今なお隠された証拠の中に真相に近づくヒントがあるかもしれません。徹底的な証拠開示が必要な事件だと思います。 — 江川紹子さんからのメッセージ[191]。
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獄中で過ごすI
要約
視点
人物像
2005年6月に無期懲役が確定したIは[34]、東京拘置所から川越少年刑務所に移送され、そこで数か月の分類審査期間を経て、2006年3月、千葉刑務所での服役が決まった。Iの支援者は2024年8月の段階で168名に達しているが[192]、支援者には川越少年刑務所でIと共に過ごした人物もおり、当時のIの人柄を証言している[193]。

Iは25歳当時、小柄で整った顔立ち、繊細で物静かな雰囲気の青年であった[193]。川越では厳しい運動訓練にも必死に取り組み、倒れても挫けず、職員からの叱責にも耐える姿が印象的であったという[193]。また所持金が少なく、自弁品のシャンプーを購入できずに官物の石鹸で頭を洗っていたが、愚痴をこぼすことはなく、周囲の受刑者に対してときおり笑顔を見せるなど、心優しい人物であったとも証言している[193]。
自白の背景と述懐
Iは、2002年に窃盗容疑で逮捕され、過酷な取調(※参照)の中で本件強盗殺人の自白に至ったが、その背景について、獄中から支援団体に寄せた直筆メッセージの中で述懐している[195]。
22年も前というと、本当に一昔前という感覚で、事件に関係のない当時の記憶は曖昧なものがほとんどですが、7月31日の出来事やその後の行動、そして取調べを受けていた頃の記憶は、今でもはっきりと覚えています。それ程、身近にいた人が殺害される、自分が殺人犯として疑われている、ということが衝撃的な出来事だったのです。
私は、警察の圧力に抗いきれず、ウソの自白をしてしまいました。世間の方は、やってもいないのに何故自白をするのか理解ができない、不思議でならないという方がほとんどではないでしょうか。当事者でなかったら、私もそのように思ったはずです。
自白に至った原因は、一義的ではありません。暴力や暴言、生理的要求の拒否など、直接的に苦痛を与えるものから、家族や恋人、友人知人などの名前を出しては、その人たちが不幸になる、迷惑がかかると恫喝まがいのやり方で精神的に追い込んできたりします。このまま否認していても、自分に待っているものは絶望しかないと思わせるのです。
私は、いくら自白をしたからといって、それだけで犯人とされるはずはないだろうと本気で思っていました。しかしその一方で、このまま犯人にされてもかまわないという投げやりな気持ちもありました。当時の私は堕落した生活を送っており、将来に希望も持てず、そんな自分に失望し、変わる努力もしないで、自分にはまともに生きる価値もないと人生を諦めていたのです。
そのように、つけこまれる隙がたくさんあったこと、自分自身に価値を見出だせなかったこと、ただただ弱かったことなど、さまざまな要因が何重にも重なって自白をしてしまったのです。 — 支援会ニュースレター第36号 2024年8月26日[195]
生活態様
Iは2006年に千葉刑務所にきた当初は、絶望により廃人のように過ごしたとの心境を告白している[196]。しかし日弁連が本件を支援決定し、支援する会が結成され、「会ったこともない、話をしたこともない多くのみなさんから支援激励していただき、変わることができた」と述べている[196][197]。そのような心境変化の中で、Iは書物で勉強し、新聞・ラジオ等に無実を訴える手紙を何百通と書き送った[198]。思いを届けるためには、きちんとした文章と字を書かなければとの思いから、多くの支援者を驚かせる達筆ぶりを身につけている[198]。ほかにも危険物取扱者、簿記2級、漢字検定1級等の資格を獄中で取得し、特に漢字検定1級は合格率が約10%の難関資格であることから、Iの努力とひたむきさに多くの支援者が感嘆し、第2次再審請求に向けた支援をつづけている[199]。
私は諦めません。決して諦めません。私が犯人ではない事は、誰よりも、私自身が、一番よく知っています。そして、私が犯人ではないという真実は、決して変わる事はありません。誰にも変える事はできません。
真実が明らかとなるその日まで闘い続け、そして、いつか再審が認めれられ社会に戻れる日がくる事を信じ、その時のために日々、精進し、自己向上につとめていきたいと思っています。 — 支援会ニュースレター号外 2018年6月[200]

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事件発生から現在(年表)
- 2002年7月31日 - 本件強盗殺人事件発生[3]
- 2002年9月1日 - 別件の窃盗容疑でI逮捕[4]
- 2003年1月12日 - 強盗殺人容疑でI再逮捕[5]
- 2004年3月29日 - 東京地方裁判所、無期懲役判決(村瀬均裁判長)[201]
- 2004年12月21日 - 東京高等裁判所、控訴棄却判決(安東文夫裁判長)[34]
- 2005年6月17日 - 最高裁判所第一小法廷、上告棄却決定(才口千晴裁判長)[34]
- 2007年2月20日 - I、獄中から日弁連に再審支援要請[189]
- 2015年5月8日 - 日弁連、再審支援を決定[34]
- 2015年6月24日 - I、東京地裁に再審請求[23]
- 2016年11月 - 国民救援会支援決定[189]
- 2017年4月13日 - 「小石川えん罪事件の再審を支援する会」結成[189]
- 2018年3月 - 検察が証拠の一部を開示[122]
- 2020年3月31日 - 東京地裁、再審請求を棄却(小森田恵樹裁判長)[41]
- 2022年4月7日 - 東京高裁、第2刑事部、即時抗告を棄却(大善文男裁判長)[42]
- 2022年12月12日 - 最高裁第3小法廷、特別抗告を棄却(渡邉恵里子裁判長)[43]
※以降、弁護団による第2次再審請求の準備が進められている。[7]
脚注
注釈
- 当記述は、「小石川えん罪事件の再審を支援する会」が作成・販売する冊子に収録された、東京地裁一審判決(確定判決)の8頁に基づくものである。当該冊子は、日弁連人権擁護委員会編『日弁連・小石川事件報告書』(全32頁)に、一審判決全文を合冊した形式で構成されており、該当箇所は冊子全体の40頁に相当する。
なお本記事中で、以降も「確定判決」を出典とする記載が現れるが、すべてこの同一冊子内の東京地裁判決文を基にしている。 - DNAは個々の塩基の「一点一致」ではなく、座位の組合せ(ハプロタイプ)全体の整合性で評価される。混合(複数人の寄与)が疑われる場合も、単一座位だけの混合信号では特定個人の寄与を支持できず、複数座位で一貫して現れることが必要とされる[83][84]。さらに、比較対象間に2塩基以上の差異があれば「除外」とするのが国際的運用であり、1塩基差は原則「判断保留(inconclusive)」とされる[85]。したがって、本件の16232位にA/Cが見えても、もし“C”がI由来であるならIが他座位で有する特徴的塩基(例:16129位のG)も同時に検出されるはずである。実際には16129位にGが認められず、しかもIとタオルB部の間には複数座位(表2参照)で明確な不一致があるため、16232位のCをI由来とみなすことはできない。
- この見解は、2023年11月26日に文京シビックセンターで行われた犯行再現実験の席で、弁護団から出された意見をもとにしている[118]。
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出典
参考文献
外部リンク
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