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小笠原長経

日本の鎌倉時代前期の武将 ウィキペディアから

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小笠原 長経(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人小笠原長清の子[2]小笠原氏2代当主。

概要 凡例小笠原 長経, 時代 ...

生涯

父とともに文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。その後は二代将軍源頼家の近習として仕え、流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199年)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習[4]にも選ばれている。同年8月、頼家が安達景盛の愛妾を奪ったことで両者が対立すると、頼家の命を受けて安達邸を包囲したが、北条政子に制止されている(『吾妻鏡』)。

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後、鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。

承久3年(1221年)、承久の乱で父・長清は鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後、恩賞として長清は阿波国守護に任命される(『尊卑分脈』)[5]。これとは別に、長経は同国麻殖の地頭に任じられた[5]貞応2年(1223年)には、長経が同国守護となっていることが確認できる[5]元仁元年(1224年)、同国麻殖保の地頭として、預所の左衛門尉清基との訴訟に勝利した。安貞元年(1227年)2月13日、上皇の御所新造にあたり、寝殿の担当を命ぜられた。

出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247年)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。

宝治元年(1247年)11月5日、69歳で死去[2]

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関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

関連項目

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