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少弐資時

鎌倉時代の武将 ウィキペディアから

少弐資時
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少弐 資時(しょうに すけとき)は、鎌倉時代中期の武将少弐経資の三男[2]壱岐国守護代元寇における日本総大将のひとり。

概要 凡例少弐 資時, 時代 ...

生涯

文永11年(1274年)の文永の役で、叔父・少弐景資に従って12歳で初陣を果たした。弘安4年(1281年)の弘安の役では、壱岐守護代であったと見なされており[2][3]、祖父・資能や父・経資らと共に百余騎を率いて壱岐に上陸した元軍(東路軍)と戦ったが、圧倒的な兵力差の前に壊滅し、資時はじめ主従一同は玉砕した[4]。享年19[3]

この壱岐島の戦いで敗退した東路軍は壱岐を放棄して、平戸島に移動した。後に叔父・景資は、鷹島で蒙古軍を殲滅した。大正4年(1915年11月10日、従四位の位階が追贈された[5]

壱岐神社・壱岐護國神社(壱岐市芦辺町)の祭神として祀られており、また、隣接する少弐公園には、「ショウニイさま」と呼ばれていた少弐資時の石積みの墓がある。墓は、戦死した地である壱岐の新城山にあり、現在は少弐公園として整備されている[3][4]

関連史跡

  • 少弐資時の墓(壱岐市芦辺町瀬戸浦)
壱岐神社そばに少弐資時の墓がある。周辺は「少弐公園」として整備されており、弘安の役古戦場を示す碑や、当時の日本船のものと思われる(いかり)石、急を知らせる防人狼煙台がある。
  • 船匿城(ふなかくしじょう)
  • 騎乗の若武者・少弐資時公像(壱岐市芦辺町芦辺浦、芦辺港フェリーターミナル前)
2001年(平成13年)5月20日、元寇720年記念事業として、彫刻家・小金丸幾久の制作による「騎乗の若武者・少弐資時公」銅像が建立された[6][7][8]。像は台座を含め高さ約6メートル[6]

脚注

出典

関連項目

外部リンク

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