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屋井三郎
日本の実業家 ウィキペディアから
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屋井 三郎(やい さぶろう、1895年〈明治28年〉6月1日[1][1] - 1964年〈昭和38年〉9月25日{失踪宣告}) は、日本の実業家である。屋井乾電池、屋井乾電池ラヂオ研究所を経営した[2][3][4][5]。1927年(昭和2年)以降は、父親と同じ「屋井 先蔵(やい さきぞう)」を名乗った[3][4][5]。
経歴
1895年(明治28年)に、屋井先蔵の三男として生まれる[6]。父の先蔵は屋井が生まれた時点で発明家として知られた人物で、自身の発明品である実用的な乾電池を扱う事業を興し、1910年(明治43年)に屋井乾電池(合資会社屋井販売部)を設立した[6][W 1]。事業の成功により、屋井乾電池の製造高は年800万円以上に達し[7]、日本における乾電池の市場を制した先蔵は「乾電池王」と呼ばれた[W 1]。
日本自動車競走大会
1922年(大正11年)、米国から帰国した藤本軍次の呼びかけに応じ、屋井は日本自動車競走大会の第1回大会に自らが所有する米国製レーシングカーのマーサーを参戦させた。当時の自動車は数千円する高価なものだったが、屋井はこれを自動車実業家の野澤三喜三から購入した[8][9](この車の来歴は「自動車大競走会」を参照)。
この一連の大会は日本において最初の本格的な自動車レースと評価されるものとなり、屋井は自身がドライバーとして参戦することはなかったが、運営に携わり、各大会で審判の一人を務めた。
屋井乾電池
1927年(昭和2年)、6月に父の先蔵が死去したことに伴い、屋井販売部(屋井乾電池)の代表となる[2][3][4][5]。同時に、家督を相続し、名を父と同じ「先蔵」に改め、2代目先蔵となる[2][3][4][5]。
以降、屋井乾電池や屋井乾電池ラヂオ研究所の経営を行うが[5]、1945年(昭和20年)の終戦直後までに屋井乾電池は消滅した[W 1][注釈 1]。
失踪宣告
1963年(昭和38年)に親族から失踪に関する届け出が東京家庭裁判所に提出され[11]、期日までに生存を確認できなかったため、翌1964年(昭和39年)9月25日付で失踪宣告を受けた[1][注釈 2]。
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脚注
参考資料
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