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日本自動車競走大会
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日本自動車競走大会(にほんじどうしゃきょうそうたいかい / にっぽんじどうしゃきょうそうたいかい[注釈 1])は、日本において1922年(大正11年)から1938年(昭和8年)にかけて開催されていた四輪自動車による自動車レースである。
全13回ほど開催されたとされる。「日本自動車競走大会」の名の下に開催されていたわけではなく[注釈 2]、大会の名称は開催レースによって異なり、初期の大会は「自動車大競走」という名称で開催された。1936年に完成した多摩川スピードウェイで開催されたレースについては、「全日本自動車競走大会」という名称で呼ばれ、しばしば区別して扱われる。
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概要
要約
視点
日本自動車競走大会は本格的な興行として開催されたものとしては日本で初の四輪自動車レースにあたる。
1922年にアメリカ合衆国(米国)から帰国した藤本軍次(ジョージ藤本)が主導して有志を集め、同年11月に初の大会が開催された。(→#開催に至る経緯)
藤本は報知新聞社との間に協力関係を築き、藤本が中心となって設立された日本自動車競走倶楽部(NARC)と報知新聞社によってレースは開催された。
参加者は自動車関連の事業を営む者や技術者などの愛好家を中心とし、参加車両の多くは中古の米国車を大幅に改造した車両が用いられた。(→#主な参加者と車両)
会場は東京を中心として埋立地や練兵場などを転々として開催され、特に埋立地では数周も走ると路面が泥濘と化したことから大きな問題となり、このことが日本初の常設サーキットである多摩川スピードウェイの開設につながった。(→#会場)
正確な記録がないため、開催レースの数については諸説あるが、1920年代から1930年代にかけて全13回程度開催されたと考えられている[1]。これは1936年に開業した多摩川スピードウェイで開催された4回を含む。(→#開催レース)
主な関係者
→「§ 関連人物」も参照
主な関係者のほとんどは1890年代前後に生まれた同世代で、お互いに面識を持った間柄であり、この大会には日本における自動車史に名を残す技術者や関係者が数多く関与した[2]。
藤本と報知新聞社が始めたこの企画に、タクリー号の開発者である内山駒之助、実業家の野澤三喜三(野澤組、立川工作所)、卓越した自動車技術者として知られていた太田祐雄(太田工場・高速機関工業)、榊原郁三(アート商会)、豊川順彌(白楊社)、藤本の友人である菅原敏雄(白楊社)、名手として名を馳せることになる関根宗次といった人物たちが、1922年(大正11年)から1925年(大正14年)の短期間に続々と参画し、大正末期に「自動車スピード狂時代」が忽然と形成された[3]。
後世、特に知られることになった参加者は、戦後に本田技研工業(ホンダ)を創業した本田宗一郎である。1906年生まれで当時10代の本田は藤本らより一世代下であり、1924年から1925年にかけて当時働いていたアート商会からカーチス号(アート・カーチス)のコ・ドライバー(ライディングメカニック)として参戦を重ね、1936年(昭和11年)には、自身のアート商会浜松支店で車両を仕立て、車主兼ドライバーとしても参戦した。
1936年から1938年にかけての多摩川スピードウェイにおける開催では、国産車小型車部門に参戦を始めた日産自動車の関係者(鮎川義介、後藤敬義、川添惣一、富谷龍一、片山豊)ほか、三井高公、小早川元治といった人物たちが大会に加わった。
レースの主催や後援を務めた報知新聞社では、企画部の煙山二郎、金子常雄が主な協力者となった。
興行の状況
1920年代の開催レースは立川飛行場で開催された第4回大会のように人気を博した大会もあったものの[4]、興行としては苦戦した[注釈 3]。それも次第に上向きとなっていき[5]、1934年の第9回大会は広告に力が入れられたことなどから興行面でも初めて成功を収め、2年後の多摩川スピードウェイの開設につながった[6]。1930年代の大会は国産車奨励を唱える軍部の強い後押しを受けて開催され[5]、多摩川スピードウェイにおける開催も盛り上がりを見せたが、日中戦争の開戦(1937年)と物資統制の強まりにより、1938年の開催をもって終了した。
大会は開催地も参加者も東京を中心として開催され、大阪で開催された第3回大会に限っては現地の愛好家も参戦したが[注釈 4]、基本的に参加者は東京在住の者たちで占められた[注釈 5]。1930年代になっても、静岡県在住の本田宗一郎が最も遠方からの参加者という状態で[5]、全国的な広がりには至らなかった。
大会の観客の大部分が日本人だったことは無論だが、日本人よりもむしろ日本在住の欧米人が楽しんでいた節があり[6]、主催者である報知新聞や、専門誌である『モーター』(極東書院)といった日本人向けのメディア以外に、日本を拠点とする英字新聞である『ジャパンタイムズ』と『ジャパン・アドバタイザー』がレースの詳細を伝える記事を数多く残している[注釈 6]。
会場
1920年代当時の日本には常設のレーシングサーキットは存在しなかったため、コースは仮設のサーキット(ダートトラック)が毎回準備された。
レースは1周およそ1マイル(およそ1,600メートル)のオーバルトラック(2本の直線と2つの半円で構成されたコース)で行われ、その規模のコースを設定できるだけの広さを持つ敷地が必要であることから、帝国陸軍の練兵場や、工場が建つ前の埋立地といった場所で開催された[9][注釈 7](→#第1回 - 第9回)。
その結果、適地を探して各地を転々とすることになり、レースのたびにコースを設営する必要があることに加え、いずれの開催地でも路面状態の劣悪さが大きな問題となった。こうした状況は日本初の常設サーキットである多摩川スピードウェイ(1周およそ1,200メートル。簡易舗装されたダートトラック)の開設につながっていくことになる。
オーバルトラックによる開催となったのは、開催の中心人物である藤本がアメリカ時代に憧れを持っていたことによる[11]。また、欧米における黎明期の自動車レースは都市間レースから始まったが、日本では当時の貧弱な道路事情により、公道でレースを開催することは到底不可能で[11][注釈 9]、毎回臨時で用地を確保してコースを設営しなければならない点からも、オーバルトラックによるレースとすることは現実的な選択だった。
競技規則・車両規則
参加車両のほとんどは外国車だったものの、外国のレース関連団体との連携は持たず、国際的なつながりは未だ持たない自動車レースだった[12][注釈 10]。そのため、レースのレギュレーション(規則)策定やレースの運営については藤本を中心にNARCによって手探りで行われ、洗練された蓄積が残されていくこととなった[5]。
競技規則の特徴として、コースのイン側からの追い越しや、走行ラインを変化させて後続をブロックすることを厳しく禁じていた[13][注釈 11]。
車両規則は定められておらず、これは規則を作って参加車両を制限すると出場できる車がなくなるという事情による[15]。
評価と影響
この大会以前にも日本において自動車レースが行われたことはあったが、この大会は日本における自動車レースの幕を開けたものとして評価されており[16]、1922年11月に開催された第1回大会はしばしば「日本初の本格的な四輪自動車レース」と紹介される。前記したように、第9回大会(1934年)までの一連の大会が日本初の常設サーキットである多摩川スピードウェイの開設(1936年)につながった[6]。
参加者には自動車技術者や自動車関係の事業を営む資本家が多く、この自動車競走大会を通じて、国産自動車産業の裾野を広げる上でひとつの礎が築かれた[2]。1920年代の参加車両は、第8回大会のオートモ号(白楊社)を唯一の例外として、純国産車による参戦は見られなかったが、多摩川スピードウェイで開催されるようになった1936年には、高速機関工業(オオタ)や日産自動車(ダットサン)の国産小型レーサーが参戦するようになり、日本の自動車レースはこの大会を通じて国産車同士による性能競争が可能な段階へと一歩踏み出した[2]。
先駆としての功績を認められる一方で、競技の参加者はごく狭い範囲の愛好者に留まり、広範囲な支持は得られなかったとも言われている[16]。後の影響として、日本の自動車メーカー3社のモータースポーツ草創期には下記の関連を持っている。
- 本田技研工業 - 本田宗一郎がこの時代からレース活動を始めた。本田がレースへの情熱を持ち続けたため、戦後に本田が創業した同社は1950年代からモータースポーツに熱心に取り組み、四輪自動車では、1960年代にその世界選手権であるフォーミュラ1(F1)参戦にまで至っている[5]。(→ホンダF1)
- 日産自動車 - 鮎川義介の指導の下、ダットサン車両が1936年の多摩川スピードウェイにおける第1回大会から参戦を始めた。この初参戦が日産自動車のモータースポーツ活動の始まりとされる[17][注釈 12]。
- トヨタ自動車 - 同社は戦後にモータースポーツ活動を始めたため関連は薄いが、豊田喜一郎がトヨペット・レーサー(1951年完成)を企画するにあたって、この大会に参加していた小早川元治に協力を求めた[18][注釈 13]。
上記した事例により、この大会は各社のモータースポーツの源流として触れられることもあるものの、第二次世界大戦(太平洋戦争)による断絶の影響は大きく、日本においては、四輪自動車レースの基盤は戦後に作られ、1960年代以降のモータリゼーションの発達に伴って発展したと見るのが一般的な認識となっている[19][20]。
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沿革
要約
視点
→「§ 年表」も参照
開催に至る経緯
→「藤本軍次」も参照
1922年(大正11年)2月、それまで米国のシアトルで自動車関連事業を営んでいた藤本軍次が日本に帰国した[21][22][23]。藤本が事業を営んでいた1910年代、米国においては自動車が早くも普及期を迎えており、同時に、1909年に同国初の常設サーキットであるインディアナポリス・モーター・スピードウェイが建設され、以降、1910年代を通じて米国製のレーシングカーは急速に性能を向上させていった時代でもあった[24][25]。同地で自動車レース興行にも関わり、その様子を肌で実感していた藤本は、日本においても自動車産業を振興し発展させるためには、自動車レースや本格的なレース専用サーキットが必要になると考えを持つに至った[24]。帰国後の藤本は、東京の自動車関係者たちと親交を結んでいくとともに、自動車レースの開催を呼び掛け、その実現の中心人物となっていった[21][22]。
1922年8月、藤本は自動車で下関・東京間の急行列車と競走するという企画を報知新聞社に持ち込み、同社の主催の下、翌月にそれを実現させた[22][26]。この競走では自動車が敗れたものの、この企画で手応えが得られたことで、報知新聞社は藤本と協力関係を結ぶことを決断し、同社の主催の下、1922年11月に洲崎埋立地において「第1回自動車大競走」が開催されることとなった[22]。(以降の出来事は「#各レースの概要」を参照)
1922年10月、藤本は日本自動車競走倶楽部(NARC)を設立した[22][注釈 14]。藤本らは日本自動車競走倶楽部を個人的なレースの団体として設立するつもりだったが、報知新聞社の企画部長である煙山二郎の助言により、「一般にも開放された公共のレースの実現」という活動目的が定められ[28][22]、報知新聞社とNARCは協力して自動車レース開催の実現を推し進めていくことになる[12][22][3]。
これらの事々が、1922年内で、藤本の帰国から1年足らずの期間に矢継ぎ早に起こった。
レース開催の実現
→「§ 開催レース」も参照
1923年(大正12年)4月には第2回大会、次いで、7月には第3回大会が開催された。その後、同年9月の関東大震災で関係者の多くが被災するという苦難であるとか[8]、各大会における会場の路面の劣悪さといった困難もあったものの、藤本らNARCは自動車レースの継続を諦めず、その後も1925年まで複数回に渡って開催が続けられた。
しかし、1925年(大正14年)12月に開催された第8回大会を最後に、大正最後の年である1926年(大正15年)になると、この大会の開催はぷっつりと途切れた[29]。これは、それまでレース開催に夢中になっていた者たちでも、車両は高速化して危険性が高まるばかりの状況で、専用サーキットもないままレース開催を続けることに嫌気がさし始めたためだと言われている[30]。加えて、同時期に深刻な不況や労働争議などの社会不安が増大していたことも、無形の影響を与えた[29]。
1930年代に入ったところで、満州事変(1931年)を契機に日本は対外的に孤立を深めていくようになった。その影響で、国産車の製造を奨励したい国の意向が働き、陸軍の後ろ盾を得て、1934年(昭和9年)に自動車競走大会の開催が再開された(第9回大会)。
1936年(昭和11年)には常設サーキットの多摩川スピードウェイが完成し、以降は一貫して同サーキットで開催された。
終焉
大会は念願だった常設サーキットをようやく得たものの、その後の開催は長くは続かなかった。日中戦争の開戦(1937年)の影響により、自動車レースは1938年4月の開催を最後に中止され、NARCも活動を休止した[12]。
その後、日本における自動車レースは空白期となり、その再開は、戦後に日本スポーツカークラブ(SCCJ)が設立されて1951年に自動車レースが開催されるまで待つこととなる[12]。
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関連人物
主な参加者と車両
- 有力選手・参加者にはそれぞれ応援団がついた[68]。
その他の関連人物
- 山川良三
- 大日本帝国陸軍の軍人(大佐→少将)で、第1回大会を含め[69]、1920年代に開催された大会で名誉会長をたびたび務めた[70]。自動車産業の保護と育成に積極的で、1920年代に専門誌『モーター』(極東書院)にたびたび寄稿している。後に陸軍自動車学校(1925年設立)の校長に就任[70][注釈 33]。
- 野澤三喜三
- NARCの会長を務め[72]、第1回から大会を支援したほか、自身が営む立川工作所(テルコ)で車両(テルコ・ビッドル)を独自に製作して参戦させた。野澤は野澤源次郎の子で、輸入商社の野澤組の跡継ぎであることから、本人はレースへの参加を厳しく止められ、自身で運転して参加することはなかった(大会中の余興で運転することはあった)[73][74]。有力な支援者だったが、いずれの開催地も劣悪な環境であることを嫌気し、1924年11月の第5回大会限りで自動車レースから手を引いた[75][76][77][78]。野澤本人は手を引いたものの、立川工作所のテルコ・ビッドルは第6回大会以降も他の参加者によって使用されている。
- 以降、野澤は自身の立川工作所でスパークプラグの研究に専念するようになった[79]。
- 戦後の1955年、日本スポーツカークラブ(SCCJ)再建の発起人の一人となり、レースへの関わりを再開している。
- 三井高公(三井八郎右衛門{16代目})
- 三井家総領家である北家の第11代当主で、三井合名の社長[81]。1930年代当時、日本一とされた資産家、かつ有数の自動車収集家であり、多摩川スピードウェイの第1回大会(1936年)に合わせて、2台のブガッティ・タイプ35とベントレー・3リッターの計3台を買い入れ、それぞれベテランドライバーに運転を任せてレースに参戦させた[63][82]。しかし、それらのレーシングカーは多摩川スピードウェイの簡易舗装の路面との相性が悪かったため真価を発揮できず、結果が伴わず惨敗したことに懲り、以後はレースに車両を参戦させることは二度となかった[82][注釈 34]。
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開催レース
要約
視点
開催されたレースについての正確な記録はなく、開催状況については当時の新聞や雑誌の記事のほか、関係者による証言や私家記録などに依拠したものとなっている[1]。そのため、「日本自動車競走大会として開催されたレースはどれか」という基本的なところから諸説ある[1][83][84][注釈 35]。1922年11月に洲崎埋立地で第1回大会が開催されたという点は主要な史料で一致する(異論が出ていない)が、他は史料によって開催地や開催回数の記載に違いがある[1]。
そのため、開催されたレースについて正確に断定することは不可能であるとされている(2017年時点)[85]。
以下の表は、近年の説[注釈 36]に準拠して、NARCが関与して開催されたと考えられているレースに回数の番号を振っている。同時期に開催されたと考えられているその他の主要なレース(これらも説によっては日本自動車競走大会に数えられることがある[86])については背景色を灰色にして記載した。不明な箇所は空欄としている。
第1回 - 第9回
下記の大会は、名称は各大会で異なっているが、当時から一連の大会として認識されていたことはたしかで、一例として、1925年12月の洲崎埋立地における開催は開催当時の時点でも「第8回」大会として報じられている[7]。下記表は決勝レース以外のレース結果を割愛している。
各レースの概要
詳細は各個別記事を参照。
- 第1回(1922年11月12日。東京・洲崎埋立地)
- 7台が参戦[6][111][注釈 55]。警察の指導により、1台ずつタイムアタックする形による開催となる[6][113][114]。
- レースは成立しなかったが、優勝カップは協議の上で内山駒之助に贈られた[112]。
- 第2回(1923年4月22日 - 23日。東京・洲崎埋立地)
- 12台[112]もしくは13台[115]が参戦したと伝えられている[注釈 56]。初めて複数台によるレースとなり、4台が並走して競われる[116]。
- 第1回でトラブルとなった警察からの許可を得やすくするため、この大会と次の第3回大会は帝国自動車保護協会を名目上の主催者とする。
- 第3回(1923年7月4日 - 8日。大阪・城東練兵場)
- 第4回(1924年4月20日。東京・立川飛行場)
- 24台が参戦[6][117]。陸軍の立川飛行場に1周1マイルのコースが余裕を持って作られ、季節も良く、観戦は無料だったため大変な賑わいとなる[117]。
- アート商会がアート・ダイムラー(ダイムラー号)を持ち込み、航空機用エンジンを搭載した自動車が初めて参戦する。
- 第5回(1924年11月22日 - 23日。神奈川・鶴見埋立地)
- 22台が参戦[118][64]。路面状態が劣悪で、新聞などでも酷評される。
- アート商会がアート・カーチス(カーチス号)を、内山駒之助がホール・スコットを参戦させ、アート・ダイムラーを含め、航空機用エンジン搭載車が複数参戦する[72]。
- 第6回(1925年5月4日。東京・代々木練兵場)
- 代々木練兵場に設定されたコースは1920年代では最も優れたものとなり、広大な敷地を活用して、内周1.5マイル、外周2マイルという全大会で最大となるコースが設定された。
- 大会はこれまでにはない波乱含みのものとなった。予選レースで車両が横転する事故が発生して参加者に負傷者が発生し、事故の再発を憂慮した警察が介入したことにより決勝レースは変則的な開催となった。その決勝レースも、予選レースで最速タイムを記録していたアート・カーチスが脱落する番狂わせの末、1着を含む上位数名がゴール後に失格になって結果が確定するという異例の事態となった。
- 第7回(1925年6月13日 - 15日。愛知・名古屋東練兵場)
- 中部地方における唯一の開催。ふだんの参加者が東京から遠征して開催された。
- 第8回(1925年12月6日。東京・洲崎埋立地)
- 22名が参戦[7]。このレースも劣悪な路面となり、足回りに不具合を来たす車両が続出し、決勝は完走2台のみという結果となる。
- 白楊社が純国産車オートモ号をレース仕様に仕立てて参戦させ、純国産車の初参戦ということで話題となった。同車は予選、決勝のいずれのレースでも好成績を収め、観客を沸かせる。
- しかし、開催地が一定しないことや各コースの路面がいずれも劣悪だったことが参加者に嫌気され、この大会から次の開催まで9年の間隔が空く。
- 第9回(1934年10月13日 - 14日。東京・月島埋立地)
多摩川スピードウェイ
→詳細は「多摩川スピードウェイ」を参照
多摩川スピードウェイにおいて、四輪自動車の大会は戦前に4回開催されたと考えられている[36][85][注釈 58]。開催が4回のみだったのかは判然としていないが、この4回については便宜的に第1回から第4回と順番に数えられることがある[85][注釈 59](下表でも括弧を付けてその順番で番号を振っている)。
資料によっては上記の1934年10月の大会を「第1回」として、1936年6月の多摩川スピードウェイにおける第1回大会を「第2回」と数えており[85]、従来の日本自動車競走大会との境界は曖昧なものとなっている。
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現存車両
要約
視点
参戦した車両の内、下記の4台の現存が確認されている。
- アート・カーチス(カーチス号)
アート・カーチス(カーチス号)
- 1924年製。第5回大会(1924年)から多摩川スピードウェイの第1回大会(1936年)にかけて参戦した。アート商会が独自に製造したレース専用車両で、社主の榊原郁三が設計し、レースでは弟の真一が運転した。戦前に日本に存在した車両の中で最速のレーシングカーの1台であり、日本自動車競走大会における最高速度記録は第6回大会でこの車両によって記録されている。
- 戦後、自動車収集家の濱徳太郎を経て、濱の死後に同車に縁のある本田宗一郎に譲られた[127]。現在はホンダコレクションホール所蔵(常設展示品)[29][W 3][W 4]。
- 1920年代に参戦した車両の中では、現存が確認されている唯一の車両にあたる[29]。
- インヴィクタ・4½リッター
インヴィクタ・4½リッター
- 1928年製[W 5]。多摩川スピードウェイの第1回大会(1936年)に参戦し、決勝レースである「優勝カップ」で優勝した車両で[W 5][注釈 63]、第1回大会から第4回大会までの全てに参加した[128]。渡辺甚吉が所有していた車両で、渡辺家の運転手である川崎次郎が運転した[129]。インヴィクタはレーシングカーではなく[W 6]、1936年時点で古い車両ともなっていたことから、車主の渡辺本人はレースへの参戦には乗り気ではなかった[129]。しかし、この車両の管理を任されていた梁瀬自動車がレース仕様に仕立てて参戦させることを強く望み、その結果、参戦が実現したという[129]。
- 戦後の1955年に小林彰太郎が「発掘」し、1958年から1981年にかけて米国でレストアが行われた[W 5][W 6]。
ブガッティ・タイプ35C
- 1926年製[130]。多摩川スピードウェイの第1回大会(1936年)に参戦。三井高公が所有していた車両で、関根宗次が運転した。
- この車両は三井が入手する前は駐日ポルトガル大使館の書記官アロウジォという人物が所有していたもので、確たる記録はないものの、ヨーロッパでもレース参戦の履歴があるとされる[131]。
- 戦後まで生き延び、カーチス号と同様、濱徳太郎を経て、本田技研工業(ホンダ)に譲られた[131][注釈 64]。戦時中にエンジンやスーパーチャージャーは海軍の研究機関に徴発され失われていたが、1980年代にスーパーチャージャーのない状態でレストアされた[131]。現在はホンダコレクションホール所蔵[131][W 3][W 4]。
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年表
要約
視点
前史
この大会が開催される以前に下記の出来事があった。
- 1907年(明治40年)
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)
- 前年に兵庫県の鳴尾競馬場で開催された日本初のオートバイレースが好評を博したことで、この年から日本の各地でオートバイレースが開催されるようになり、その中で四輪自動車も余興として走るようになる[136]。
- 1915年(大正4年)
1922年 - 1934年・第1回大会 - 第9回大会
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)
- 1933年(昭和8年)
1936年 - 1938年・多摩川スピードウェイ
→「多摩川スピードウェイ」も参照
- 1935年(昭和10年)
- 藤本軍次、報知新聞社の金子恒雄が中心となり、日本スピードウェイ協会を設立する[144][89](正確な設立時期は不明)。同協会により、多摩川河川敷に常設サーキットを建設する計画が具体的に動き始める。
- 3月中旬、複数の新聞が「多摩川の新設グランドで近日自動車レース開催。4月21日頃か」と報じる(実現はしなかった)[5][1]。
- 4月3日、前年の日産自動車設立に三井財閥が刺激を受けたことで、三井物産が太田祐雄の太田工場に出資し、高速機関工業が設立される[67]。これにより、太田はレーサーを製作する充分な時間的余裕を得る[67]。
- 4月、開催を予定していた多摩川河川敷の使用について、東京市の衛生局が水道保護の観点から難色を示し、使用許可が不受理となる[5]。これにより、予定されていたレース開催は実現が見送られる。
- 6月、多摩川河川敷を管理していた内務省がレース場としての使用に同意する[5]。
- 7月、多摩川スピードウェイの建設工事が始まる[5]。この時点では9月末に完成し、10月に最初のレースを開催するという予定だったが、工事の遅延により、完工は翌年春となる[5]。この遅延はむしろ東京のモーターファンの期待を広く集め、参加を予定していた者たちにとっても準備期間を長く取れることになり、かえって効果的だったとも言われている[5]。
- 1936年(昭和11年)
- 2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校たちが蜂起し、中央官庁を一時的に占拠する事件が起きる(二・二六事件)。これに伴い2月27日から7月16日にかけて戒厳令が敷かれたが、開催が予定されていた自動車競走大会への参加を目指す者たちは、戒厳令下、密かに車両の準備を進める[145]。
- 5月9日、多摩川スピードウェイが開業する。
- 5月29日、自動車製造事業法が公布され、7月から施行される。成立に前後して外国資本(米国資本)の自動車会社を日本市場から締め出したい日本政府の意向が有形無形に示される。
- 6月7日、全日本自動車競走大会が開催される。(多摩川第1回大会)
- 10月25日、秋季自動車競走大会が開催される。(多摩川第2回大会)
- 1937年(昭和12年)
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関連書籍・記事
- 書籍
- 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』(三樹書房・2017年刊)
- 1930年代後半の多摩川スピードウェイにおけるレースを中心に詳述され、その前史として1920年代のレースについても触れられている。
- 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』(三樹書房・2022年刊)
- 1920年代のレースに絞って詳述されている。
- 記事
- 岩立喜久雄『轍をたどる』(21)~(23)(八重洲出版『Old-timer』誌 2003年10月号・通巻第72号~2004年2月号・通巻第74号)
- 「戦前自動車競走史」と題した特集記事の内、第4回から第6回の計3回。1920年代から1930年代の日本自動車競走大会について詳述されている。
- 2000年代以降に刊行された関連書籍ではこの記事で岩立によって示された解釈が参考にされている。
脚注
参考資料
外部リンク
Wikiwand - on
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