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自動車大競走会

1915年に開催された自動車レース ウィキペディアから

自動車大競走会
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自動車大競走会(じどうしゃだいきょうそうかい、旧字体自動車大競走會[注釈 2])は、日本において1915年大正4年)に開催された四輪自動車による自動車レースである[注釈 4]。10月に東京府関東)の目黒競馬場で開催され、11月に兵庫県関西)の鳴尾競馬場で開催された。

概要 開催概要, 主催 ...

10月に目黒競馬場で開催された大会は、興行として開催されたものとしては日本で最初の四輪自動車レースとされる。また、日本において複数の純レーシングカーを用いて開催された初の自動車レースにあたる[20]

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概要

1914年(大正3年)に上野恩賜公園で開催された東京大正博覧会を記念して、翌1915年に日本初の自動車レースとして開催された[21][12]

この大会はロサンゼルス在住の在米日本人たちによって企画され、車両は彼らが来日に際して持参した4台のレース専用車両が用いられた[12]。内容の半分以上は見世物に近く、競技性は乏しいものだったが、各開催日の最終レースでは本格的な競走が行われた[22]

興行が期待外れの結果に終わったため、大会を企画・実施した在米日本人たちは赤字を抱え、持参した4台の車両を全て売却して帰国した[12]

開催に至る経緯

アメリカのロサンゼルスに在住する日本人の自動車愛好家の有志が、大正博覧会にちなんで東京で御大典記念の自動車レースを興行し、一儲けしようとしたのが企画の端緒である[20][注釈 5]

ロアジ自動車学校[注釈 6]の校長である小川喜平を団長として、佐多、中川、藤川、佐藤、阪本といった在米日本人自動車研究会のメンバーのほか、ジョージ・ニューマンという人物が加わり、本格的な「純レース用車両」(レーシングカー)である、マーサー英語版2台、スタッツ英語版1台、ケース英語版1台の計4台とともに来日した[20][18][23]

当時の日本には自動車レースの開催を想定した施設は存在せず、やむなく競馬場と交渉を行ったが芝生を傷める心配から交渉は不調続きとなり、再三の交渉の結果、関東では目黒競馬場だけが開催を承諾し、会場が決定した[20]

開催の内容

要約
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目黒競馬場のコース図

目黒競馬場における開催も鳴尾競馬場(兵庫県)における開催も、二輪との共催という形で行われた。この時期、二輪のレース(オートバイレース)は既に日本各地で開催されていたため、二輪の参加者は日本で募集して充分な数が集まり[注釈 7]、この大会では四輪自動車のレースと二輪自動車のレースが交互に行われた[22]。(→#レース内容

四輪自動車のレースは4台の自動車に自動車研究会のメンバーが代わる代わる乗り込み行われた。ただし、レースは4台を同時に走らせることはせず、基本的に2台ずつで競走を行った。そうした形式になった理由は定かではなく、競馬場の走路の狭さのためとも[22]、自動車レースがどういったものか知らなかった警察によって複数台を同時に走らせることを禁止されたためとも言われている[24]。いずれにせよ、開催レースの過半は競走の途中でピットに入って義務としてのタイヤ交換や服の着替えなどを行う「障害物レース」として開催され、運転技術や車の性能を競うようなものではなく、見世物としての要素が強いものだった[16][23][22]

しかし、各開催日の最終レースだけは通常の競走が行われ、3台が雁行する形でローリングスタートを行い[注釈 8]、爆音を立てつつ猛スピードで走って25マイル(25周)のレースを戦い、本来の自動車レースの姿を日本で初めて示した[23][22]。それまでの見世物的な障害物レースには興味を示さなかった自動車人士たちも、これには興味を覚えたと言われている[23][22]

自動車レースの知識がある者ならば誰しも、このような、路面は芝生でバンクもついていないようなコースで真剣なレースをしようという考えには失笑を禁じ得ないだろう。これでは車はコーナーでコース外に飛び出すほかなく、自殺行為と言うほかない。昨日のドライバーたちもそのことはわかっていたと見え、スピードの欠如を芝居じみた演出で補うことにしたようだ。観客たちの中にはこれを(競技として)真面目に受け取ろうとした者もいたが、大多数はこれを単純に娯楽として楽しんだようだ。参加者には観客たちの中に知り合いを見つけて手を振る者もおり、これは社会性のあらわれではあるが、「美女とはしけ英語版」のバーレイ船長に言わせれば「愛想が良すぎる」といったところだろう。[13]ジャパンタイムズ』(1915年10月17日)による、目黒競馬場における開催初日のレース評
この勝負は観客一同の期待しただけそれだけ操縦者も妙技を演じて、走行二十マイル位から一二週1、2周毎にその決勝点迄相前後すること約三回にして観客に少からず気を揉ませるのであったが観客の中にはこの競走は観客を喜こばせむ為めの八百長的競走なりなど悪罵するものもあったが、ここにはそれを兎角云ふ必要がない故、その見解は見た人の考に任かせて、その興味ある操縦ぶりを賞賛するのである。[11]雑誌『自動車』(1915年11月号)による、目黒競馬場における開催初日の最終レース評

興行の失敗

この大会は、主催者が期待していたほどには観客が集まらず[12]、目黒競馬場の初日の観客数は1,000人ほどに留まったとされ[16]、当時すでにオートバイレースが盛んに開催されていた関西地方の鳴尾競馬場の開催でも2日目(日曜日)に5,000人弱という結果で[19]、興行としては成功しなかった[25][W 1]

失敗の要因

興行失敗の要因として、当時の日本人には四輪自動車そのものに馴染みがなかったことが大きいと考えられている[12]

当時の日本では自転車や二輪自動車(オートバイ)はすでに親しまれており、オートバイレースは1912年(明治45年)5月に鳴尾競馬場で「第1回自動自転車競走会」が開催されている[26]。興行としては日本初のオートバイレースとされるこの大会は2万人の観客を集めるという成功を収め[12][27]、1915年までの数年間で複数のオートバイレースが好評の内に開催されている[注釈 9]

自動車大競走会が開催された1915年の時点では知りようもなかったことだが、それら二輪レースと観客数で大差がついたことは必ずしも例外的な結果というわけでもなかった。四輪の自動車レースは、1922年(大正11年)に初開催された日本自動車競走大会によって、日本国内でも本格的に開催されるようになったが、戦前期の日本では四輪自動車のレースよりオートバイレースのほうが人気は圧倒的に高く、集客力に数倍の差があるという状態は戦前期を通じた傾向だった[28]。二輪自動車レースのほうが人気を博する傾向は戦後も続き、その流れが変化を見せ始めたのは1962年に鈴鹿サーキットが完成し、その翌年から四輪自動車レースが行われるようになって以降のこととなる[29][注釈 10]

自動車関係者の非協力

興行失敗の一因として、一行が日本の自動車人士たち[注釈 11]の協力を得られなかったことも指摘されている[16]。当時の日本における代表的な乗り物雑誌である『モーター』誌(極東書院)はレース開催前にまともな紹介記事を掲載せず、露骨に揶揄した[16]。当時の日本国内の自動車関係者が一行に協力したり便宜を図ったりしたという記録や証言も確認されていない[注釈 12]。そうした冷遇となった理由は不明だが、一行の目的が興行収入にあったせいか、あるいは日本人を見下し、礼を欠いたのだろうと推測されている[16]

主催者の結末

興行が失敗して赤字を抱えた一行は、帰国費用を工面する必要も生じたことから、持ちこんだ4台の車両を全て実業家の野澤三喜三に売却した[20][30]。野澤はこの4台を当時としては大金の1万円で買い取ったという[31][注釈 13]。さらに入国時の脱税が発覚したことで、一行は逃げるようにして日本から去ることを余儀なくされた[16][注釈 14]

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評価と影響

このレースは興行としては失敗に終わったが、純粋なレーシングカーを日本に持ち込んだことや、レースのやり方を日本で紹介したことについては一定の意義があったと評価されている[20]

しかし、このレースの開催は忘れ去られることになる[32][注釈 15]。その後への直接的な影響は、この大会の車両を買い取った野澤三喜三がその車両の一部を1920年代の日本自動車競走大会に参戦させたこと程度に留まる。(→#車両のその後

レース内容

要約
視点

参加者

目黒競馬場における開催時は、四輪の参加者は「9名」が予定されていると報じられている[9]

鳴尾競馬場における開催時は、四輪の参加者として「渡邊、小川、藤岡、中川、松永、佐多、宮原、阪本」[10]の8名が参加したとされる。

使用された車両

車両は、一行がロサンゼルス郊外のアスコット公園で走らせていた5台の内の4台にあたる[23][33]

米国から持ち込まれた4台のレーシングカーは、フロントグリルにそれぞれ「1」から「4」までの番号が書かれ区別された。二輪自動車(オートバイ)については、日本で募集に応じた参加者たちが持参した。

持ち込まれた四輪車両は全速力を出せば時速90マイル(およそ時速145 km)で走れる性能を持ち、鳴尾競馬場のコースでも時速75マイル(およそ時速120 km)は出せるだろうと見込まれていた[10]

さらに見る 車番, 車両 ...

目黒競馬場

審判長は警視庁の「原田技師」[注釈 16]、審判員は寳田壽(宝田壽)、小林吉次郎[注釈 17]小栗常太郎が務めた[11]

1日目の大会は、当時の記事によって開催内容に若干の差異がある(大筋は同じ)。2日目の大会は15時30分に予定通り閉会となったが、午後は降雨により自動車は思うように走れなかったという[15]

さらに見る 回, 競技 ...

鳴尾競馬場

大阪朝日新聞』(朝日新聞大阪本社)が優勝旗と銀牌を提供し、初日は優勝旗は障害物レースで勝った宮原(宮原才熊[7])に、銀牌は初戦で勝った阪本に贈られた[10][7]

四輪レースでは、関西で初期の飛行家として知られた高左右隆之が参戦し、二輪レースでは、この年に上海市で開催された第2回極東選手権競技大会(通称「上海オリンピック」)の自転車15マイル競技の優勝者である藤原正章が参戦し、それぞれ話題となった[7]

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車両のその後

大会後に野澤三喜三によって買い取られた4台の車両はそれぞれ下記のような運命をたどったとされ、現存が確認されている車両はない。

  • 1号車・ケース(40馬力)
この車両は、他の3台に比べて優れた性能ではなかったため、解体されたと言われている[38][注釈 25]
  • 2号車・マーサー(70 - 75馬力)、4号車・マーサー(70 - 75馬力)
2台のマーサーのどちらか(おそらく4号車)は屋井三郎が野澤から買い取り、日本自動車競走大会で車番「2」を付けて走った[32][16]
もう1台の車両(おそらく2号車[33][注釈 26])は野澤によって研究に用いられたとされ[32]、野澤は車両のボディを国井自動車室製作所に依頼して乗用車ボディに作り替え[38][注釈 27]、野澤の自家用車となった[39]
  • 3号車・スタッツ(出力は35馬力から90馬力まで諸説ある)
この車両は、陸軍飛行隊からの希望を受け、車両から取り出されたエンジンが教育用に用いられたと言われている[38]
一説には、日本自動車競走大会の初期に関根宗次が使用したスタッツも同じ個体で、野澤の立川工作所で新たに作られたボディを装着したものだとも言われている[41][注釈 28]
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脚注

参考資料

外部リンク

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