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自動車大競走 (1922年)
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1922年(大正11年)11月の自動車大競走(じどうしゃだいきょうそう)は、日本の東京市洲崎において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第1回大会にあたる。
概要
1930年代まで開催されることになる日本自動車競走大会の第1回大会であり、しばしば「日本における最初の(本格的な)自動車レース」に位置付けられる(諸説あり)[8][9][10][W 1]。当時も「日本初の自動車レース」という触れ込みで開催された[11]。
主催者である報知新聞社(報知新聞)による宣伝が奏功し、当日は3万人とも5万人とも言われるほどの観客が来場した[3][5]。
しかし、警察の横槍により複数台を同時に走らせて競走させることはできず、1台ずつタイムアタックを行って競うタイムトライアル形式での開催となった。(→#レース内容)
開催に至る経緯
→「日本自動車競走大会 § 開催に至る経緯」も参照
1922年(大正11年)2月、米国で自動車事業を営んでいた藤本軍次が帰国した[12]。藤本は米国における1910年代の自動車産業の発展を目の当たりにしていたことから、日本でも自動車産業を発展させるには自動車レースの開催が不可欠だと考えていた。そうして、藤本は日本の自動車関係者たちに働きかけるとともに、報知新聞社の賛同も得て、本大会の開催にこぎつけた。
常に社会的進運に伴うよう志している本社は今度日本に初めての自動車大競走を主催することに致しました。進化せる交通機関としての自動車を以て競走を行うことは欧米では既に行われ我国でも自転車やオートバイの競走は行われましたけれど未だかつて自動車競走は行われませんでした。本社はかくて優秀な選手と優良な競走用自動車とを以て我が自動車界の刺激と啓発とに資するため規模は小さくても成績は飽迄も実質的レコード的なものでありたいと望んで居ります。[1] — 報知新聞による告知
この第1回大会を開催するにあたっては、警視庁(内務省)に許可申請を行ったところ、「もっと社会的地位のある人を連れてこい」と言われたため、経済学者の大田正孝に仲介してもらうなどの苦労があった[13][14]。警察とは当日も開催形式を巡って悶着が生じることになる。(→#警察による横槍と開催形式の変更)
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会場
1921年(大正10年)にかけて造成された洲崎埋立地(洲崎第1埋立地)が開催地となった[注釈 3]。開催当日の天気は良かったものの、関係者からは「不完全極まるトラック」(下記の論評)と評され[3]、コースの劣悪さは以降の大会でも問題として抱え続けることになる。
会場となった洲崎埋立地には小栗常太郎の小栗飛行学校が置かれており、普段は飛行場として使用されていた。
参加者・参加車両
要約
視点
参加車両について、『日本自動車工業史稿』の記述に基づいて屋井三郎のマーサー、内山駒之助のチャルマー、藤本軍次のハドソン、関根宗次のプレミアの「4台」が参戦したとされていたが[16][5]、2000年代以降の調査研究では、マーサー、ハドソンのほか、テルコ・ビッドル、スチュードベーカー、フランダー、ロコモビル、オークランドを加えた「7台」が参加したとされている[6][17][注釈 4](下表を参照)。
大会の2日前に報知新聞に掲載された出場者8名には内山駒之助、関根宗次、丸山哲衛の名はなく、参加は直前に決まったと考えられている[19]。内山は出場するよう自分が誘われたのは開催前日だと述べている[19]。
運営関係者
エントリーリスト
レース内容
要約
視点
予定していた開催形式
元々は、下記の形式で開催される予定だった[18]。
- 第1レースから第3レース: 3マイル(3周)の予選レース。
- 第4レース: 10マイル(10周)。第3レースまでの1着と2着によるレース。
- 第5レース: 10マイル(10周)。第3レースまでの3着以下によるレース。
- 決勝レース: 25マイル(25周)。各レースの上位者によるレース。この勝者が優勝者となる。
警察による横槍と開催形式の変更
しかし、開始直前に警視庁が「2台以上の同時走行はまかりならん」と主張したため、主催者である報知新聞社との間で悶着が生じることになる[4][24][注釈 8]。
いつまで経ってもレースが始まらず、集まった観衆が主催者に詰め寄る事態となり、報知新聞社の企画部長である煙山二郎は表向きは「練習」という扱いにして開催を進めることを決断する[4][24]。
この決断は主催者と警察のやり取りを見ていた観衆から喝采を浴びたが[4][24]、複数の自動車による同時スタートはできなかったため、やむなく1台ずつ1分おきにスタートするタイムトライアルとして開催された[16][13][5][27][28]。
このような開催形式となったため、この大会を「日本における最初の自動車レース」と呼んでよいかは疑問の余地もあると指摘されている[28]。
レース結果
- 10マイルのタイムアタック(第4回)で内山が最速の15分10秒台を出したことが内山に優勝カップを贈る決め手となった[3]。
レース結果の扱い
「 | 我が国最初の試みであり不完全極まるトラックに於いて行ったものとしてはかなり好成績であるといえる。ただ遺憾であったのは自動車を並べての競争を許さず已むなくタイムレースということにした事である。私の見る所では自動自転車とは異なりハンドルを取られたり滑ったりすることは少ないから危険は殆どなく、あのトラックでも四台は並べて充分走り得る余地があるが少なくとも二台は競走することを許されたかった。[3] | 」 |
—審判長を務めた小林吉次郎によるレース評(1922年) |
レースは行われなかったが、優勝者に贈られる「報知杯」の立派な優勝トロフィーを用意していたため、協議の結果、内山駒之助に贈られた[16][29][19]。これは内山の業績を踏まえたもので、内山はタクリー号の開発者で日本の自動車業界の先駆者であることや、この大会におけるタイムも優れていたことが考慮された[16][29][19]。
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レース後
後日、藤本のハドソン(ケース号)に興味を持った山階宮武彦王は藤本らを自邸に招き、同車とともに参内した藤本らは武彦王から同車について下問を受けた[30][31]。
脚注
参考資料
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