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山下紅畝
女流日本画家 (1884-1977) ウィキペディアから
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山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日[1] - 1977年〈昭和52年〉10月25日[1])は、女流日本画家。日本画会会員[2]。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら[2]、または山下久良子[1]。旧姓は中田[3]。
経歴
香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した[4]。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって[5]、東京女子高等師範学校へ進学[6]。1906年(明治39年)に同校を卒業後に[3]、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた[6]。
1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した[6]。この在学中に色彩の研究の傍らで[3]、同校の教師であった日本画家の荒木十畝に絵画の指導を受け、荒木より「紅畝」の雅号を受けた[6]。
卒業後は母校の教壇に助教授として立つ一方で、荒木十畝の門下に残って、荒木の画塾で画法の向上に尽力した[6]。日本絵画展や万国博覧会画展などの入選を経て、1918年(大正7年)に『朝』が文展に入選し、女流画家としての知名度を得た[6]。1920年(大正9年)には[3]、まだ女性が入学不可であった帝国大学に、初の女子聴講生として迎えられた[5]。
1922年(大正11年)に、当時の衆議院議員だった山下谷次と結婚した[6]。政治家の妻として、また三男二女の母として多忙な日々を送った[6]。このために女流画家として注目を集めながらも、山下の妻として専念するために、絵画から離れた[7]。
1936年(昭和11年)に夫と死別し、遺児を育て上げた後に、1951年(昭和26年)に丸亀に帰郷した[6]。晩年は中津万象園で過ごし[5]、画業の傍らで、多くの弟子をとって絵画を教え、香川県の日本画壇の発展に大きく貢献した[1]。1977年10月に、満93歳で死去した[8]。
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没後
丸亀帰郷後に遺した作品は、香川県内の金刀比羅宮博物館、高松市美術館、丸亀市区民館蓬莱閣、高松酒造会館大広間などに展示されている[6]。
晩年を過ごした万象園が女子少年院「丸亀少女の家」の近隣だった縁で、同院に2点の作品が寄贈されている[6][9]。中でも大作の『孔雀に罌粟』は1957年(昭和32年)、72歳のときに描かれた作品であり、同院の少女たちを見守る存在として講堂に長く飾られ、紅畝の代表作の1つにも数えられている[6]。京都書院による『日本の花鳥画 昭和編』にも、昭和を代表する百の日本画の一つとして収録されている[7]。
脚注
参考文献
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