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荒木十畝

日本画家 ウィキペディアから

荒木十畝
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荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日明治5年9月3日) - 1944年昭和19年)9月11日)は、日本画家長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎[1]

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荒木十畝

生涯

大村藩士、朝長兵蔵の子として生まれる。郷里では琴湖と称して絵を描いていたが[2]1892年に上京し[2][3]荒木寛畝に師事[2][3]。翌年養子となり[2][3]、画号を十畝に改める[2][3]1895年日本美術協会会員[2]1897年日本画会創立に参加し[2]、その主任幹事となる。1901年東京女子高等師範学校講師[2]1903年第5回内国勧業博覧会で褒状、1904年セントルイス万国博では銀牌を受ける[2]1905年寛畝一門の画塾読画会が設立され、運営にあたる。1907年文展開設時には新派に対抗して正派同志会を組織して幹事長となり[2][3]、第1回展不出品の挙に出た。翌年の第2回展から審査員となり[2]、官展の重鎮として活躍する。1910年日英博覧会金牌受賞[2]1919年女高師教授を辞す[2]1922年日華連合絵画展開催[2]1923年帝国美術院会員[2]、正五位勲四等に叙される[2]1931年シャムに渡り日本美術展を開催[2]1937年帝国芸術院会員となる[2]。晩年は画室を大磯[2]、更に箱根仙石原に移して制作に打ち込もうとしたが、心臓麻痺により急逝[2]。享年73。法名は開悟院殿十畝日顕居士。墓は新宿区浄輪寺(のち多磨霊園に改葬)。

花鳥画を得意とし、同時期に活躍した横山大観らと並び称される[1]。いわゆる旧派の代表的人物と目されるが、制作面では伝統的な画法に立脚しつつ、新たな表現を模索し続けた画家であった[1][4]

弟子に西沢笛畝森白甫永田春水亀割隆志木本大果松久休光小林観爾湯原柳畝山下紅畝[5]などがいる。

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代表作

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画集

  • 『十畝画選』高田耕雲編 芸艸堂 1926年(大正15年)
  • 『十畝作品集』東京美術倶楽部 芸艸堂 1938年(昭和13年)
  • 『十畝画選』荒木いと 1963年(昭和38年)

著作

  • 『花鳥画の描方』日本美術院 1919年(大正8年)
  • 『新南画講座』資文堂 1935年(昭和10年)
  • 『東洋画論』小学館 1942年(昭和17年)

親族

脚注

参考資料

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