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崔玄暐
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経歴
胡蘇県令の崔慎(崔伯謙の曽孫)と盧氏のあいだの子として生まれた。もとの名は曅といったが、その字の脚の部分が武則天の祖父の諱に抵触していたため、玄暐と改名した。若くして学問と品行があり、叔父の崔行功に器量を重んじられた。龍朔年間、明経に挙げられ、庫部員外郎に任じられた。ほどなく天官郎中に任じられ、鳳閣舎人に転じた[1][3]。
長安元年(701年)、玄暐は天官侍郎に抜擢された。人事の請託を固く拒絶したため、執政者に憎まれて、文昌左丞(尚書左丞)に転じた。1月あまりして、再び天官侍郎に任じられた。長安3年(703年)、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事(宰相)に任じられた。ほどなく太子右庶子を兼ねた。長安4年(704年)、知政事(宰相)のまま、鳳閣侍郎に転じ、銀青光禄大夫の位を加えられた。先立って来俊臣や周興らが無辜の人士を誣告し、数百家が財産を没収されていたため、玄暐がそれらの冤罪を上書し、武則天に聞き入れられて、みな名誉を回復された[4][5]。
神龍元年(705年)、張易之兄弟を討つのに参与した功により、中書令に任じられ、博陵郡公に封じられた。中宗が鄭普思を秘書監に任じようとしたので、玄暐はこれを諫めたが、聞き入れられなかった[6][5]。4月、検校益州大都督府長史・判都督事となった[7]。5月、宰相から退任し、博陵郡王に爵位を進めた[8]。
神龍2年(706年)、王同晈が武三思の殺害を計画して、事が漏れると、武三思は玄暐や敬暉・桓彦範らを連座させた。玄暐は白州司馬に左遷され[9]、さらに古州に流され、道中に病没した。享年は68。諡は文献[5]。建中元年(780年)、太子太師の位を追贈された。著書に『行己要範』10巻・『友義伝』10巻・『義士伝』15巻・『訓注文館辞林策』20巻があり、当時に通行した[6]。
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子女
脚注
伝記資料
参考文献
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