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川村花菱

日本の劇作家、演出家、脚本家 ウィキペディアから

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川村 花菱(かわむら かりょう、1884年2月21日 - 1954年9月1日[1])は、日本の劇作家演出家脚本家である。本名:川村 久輔(かわむら きゅうすけ)[1]

概要 かわむら かりょう 川村 花菱, 本名 ...

人物・来歴

1884年(明治17年)2月21日東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)に「川村久輔」としてうまれる[1]。父は旧幕臣・官僚の川村正平(恵十郎)[2]

旧制・早稲田大学英文科を卒業する[1]。満24歳となった1908年(明治41年)11月11日、東京・牛込に藤沢浅二郎が自費で開校した東京俳優養成所[3]の教師となる[1]

1912年(明治45年)、有楽座土曜劇場を設立する[1]。続いて新日本劇を設立する[1]。1923年(大正12年)、日活向島撮影所の脚本部に入社している[4]。同年9月の関東大震災以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部(現代劇部)に異動している[5]

1932年(昭和7年)からは松竹蒲田撮影所で、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『乳姉妹』といった通俗小説の脚本化に携わった。

その後は、芸術座の脚本部員・興行主事として活動した[1]。代表作とされる戯曲『母三人[1]は、1930年(昭和5年)以来、4度映画化された。

1954年(昭和29年)9月1日、死去した[1]。満70歳没。没後の1967年(昭和42年)、駅前シリーズ佐伯幸三監督作『喜劇 駅前満貫』に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてがパブリックドメインである。墓所は多磨霊園(3-1-8)。

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おもなフィルモグラフィ

サイレント初期はクレジットが存在せず、不明な作品がある。特筆以外はすべて原作。

1923年
  • 小さき救ひ : 監督細山喜代松、脚本不明、国活巣鴨撮影所
  • 神への道 : 監督細山喜代松、日活向島撮影所 - 脚本・原作
  • 嵐する前 : 監督細山喜代松、日活向島撮影所 - 脚本・原作
1924年
1930年
1932年
1933年
1934年
  • 子を持つ処女 : 監督上野真嗣、脚本小諸遊、新興キネマ
1935年
1936年
  • 三つの愛 : 監督曽根千晴、脚本陶山密、新興キネマ東京撮影所
1937年
  • 初島田 : 監督伊奈精一、脚本如月敏、新興キネマ東京撮影所
1940年
1949年
1958年・没後
1967年・没後
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ビブリオグラフィ

国立国会図書館蔵書[6]

  • 『川村花菱脚本集 第1巻』、金星堂、1923年
  • 『大正むさしあぶみ 大震災印象記』、挿画山村耕花報知新聞社出版部、1924年
  • 国定忠次』、文興院、1924年
    • 『端唄の家』『誓願の日』『老』『残んの雪』『医者の家』『国定忠次』を収録[7]
  • 『日本戯曲全集 現代篇 第7輯』、春陽堂、1929年
  • 『上演用脚本集』、清水書房、1943年
    • 『兵隊の宿』を収録[8]
  • 『母三人』、北光書房、1949年
  • 『随筆・松井須磨子』、青蛙房、1968年 - 青蛙選書
    • 『松井須磨子』新装版、青蛙房、2006年9月
  • 『国立劇場歌舞伎公演上演台本 昭和47年1月 - 昭和47年12月』、編集・出版国立劇場、1972年1月 - 同年12月
  • 『夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ』、共著竹久夢二山村耕花クレス出版、2003年9月

外部リンク

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