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平沢常富

1735-1815, 江戸時代の戯作者。狂歌師としては手柄岡持で知られる。 ウィキペディアから

平沢常富
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平沢 常富(ひらさわ つねとみ、ひらさわ つねまさ[2])は、江戸時代中期から後期にわたる出羽国久保田藩(現在の秋田県)の定府藩士で江戸留守居を務めた[注釈 2]朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、手柄 岡持(てがらの おかもち)の狂名で知られる狂歌師でもある[3][4]。通称は平角(平格[5]とも)、字は知足[注釈 3]、号は愛洲[注釈 4]。金錦佐恵流(きんきん さえる)の筆名も使った[7][注釈 5]

概要 凡例平沢 常富, 時代 ...

隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)[9]俳号は雨後庵月成(うごあん つきなり)[3][9]、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける[注釈 6]

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略歴

江戸の武士、西村久義(平六)の三男として誕生。14歳で母方の縁戚にあたる久保田藩士・平沢常房の養子になった[3][16]。なお、養家初代の愛洲通有は愛洲陰流剣術の祖であった愛洲移香斎に連なり、2代目の小七郎宗通(元香斎愛洲宗通)は永禄7年(1564年)に常陸国(当時)を治めた佐竹義重に仕えた。3代目常通は西那珂郡に賜った地所の「平沢」に合わせて姓を改めたと伝わる[注釈 7]

天明の頃、藩の江戸留守居役の筆頭を任された平沢常富は120取りであった。当時のその役職は江戸藩邸を切り盛りし、幕府や他藩との交渉を担い、現代の外交官に相当した[注釈 8]。40年あまり続いた亀田藩との藩境争いを解決するなど活躍した[3]

平沢は若い頃から「宝暦色男」と自称して、また役職柄、情報交換の場として一種の社交サロンでもあった吉原通いを続けた[3]。勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。おりから「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こった田沼時代であり、武士町人の間に数多くの連(サークル)が作られ、常富も手柄岡持[6]楽貧王という名で狂歌の連に参加していた。

しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を天明8年(1788年)に上梓すると、執筆者の平沢は久保田藩9代藩主・佐竹義和より叱責されたと見え、以降は黄表紙から手を引くと、もっぱら狂歌作りに没頭した[3]

子の為八[21]や孫の左膳(初名は重蔵[注釈 9])も江戸留守居を勤め、用人にも就任した。

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代表作

発行年順。

  • 親敵討腹鞁』2冊、黄表紙。安永6年(1777年) 恋川春町
  • 案内手本通人蔵』2巻。安永8年(1779年)[26]
  • 見徳一炊夢』3巻。安永10年(1781年)[27]
  • 文武二道万石通』3冊。天明8年(1788年) 喜多川行麿
  • 後(のち)はむかし物語』随筆、1803年(享和3年)序

刊本

要約
視点

特筆する場合を除き、国立国会図書館デジタルコレクションに収蔵、オンライン上で閲覧できる。

絵巻
  • 『職人盡繪詞』鍬形蕙斎 原画、山東京傳、杏花園、手柄岡持 詞書、和田音五郎 模写。NDLJP:11536008国立国会図書館書誌ID:0000072975933軸 ; 39.5cm。彩色、絵巻。
黄表紙
教訓
洒落本
咄本
さらに見る 題名, 叢書 ...
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関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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