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広島原爆で被爆したロシア人
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広島原爆で被爆したロシア人(ひろしまげんばくでひばくしたロシアじん)では、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下で被爆したロシア人について述べる。
資料の絶対数が少ないため、全容はわかっていない[1]。わかっているだけでも6家族13人が被爆、うち1945年秋までに5人が亡くなっている[1]。
沿革
1917年ロシア革命で敗れソビエト政権に反対した白系ロシア人は祖国を去り国外へ亡命した。その中には日本に亡命し各地に定住したものもいた[2]。1925年日ソ基本条約が締結すると、彼らは「無国籍」となりそのまま日本に定住したものと海外へ移住しその地で国籍を取得したものに分かれた[3]。1930年時点で、兵庫県と神奈川県を中心に1,666人いた[3]。
1945年8月6日、原爆により白系ロシア人6家族13人が被爆したことがわかっている[1][4]。即死を免れた9人は終戦後すぐ帝釈峡の旅館に強制的に移された[5][6]。同様にイエズス会神父も移されており、軍部の騒乱を恐れて広島警察が移動指示をだしたという[6]。秋まで滞在し、そして神戸と東京へそれぞれ向かいそのまま定住、あるいはそこからアメリカやオーストラリアへ移住している[5]。
日本において初めて公的にその存在が明らかになったのは、1970年ポール・ボルゼンスキーが原爆死没者名簿に記帳された時である[5]。ただ神戸異人館パラスティン邸家主フョードル・パラシューチンは唯一被爆者健康手帳を持っていたため[5]、公的な手続き上での被爆者認定はパラシューチンの方が先である可能性がある。
一方でソビエト政府は、広島・長崎原爆を非難しそして学校教育でも積極的にその惨劇を教えていたものの、被爆者の中に白系ロシア人がいたということは、彼らが反ソ連という立場であったため全く無視されていた[5]。1980年代後半からのペレストロイカ以降、白系ロシア人亡命者の研究が始まり、2002年ロシア科学アカデミー東洋学研究所の機関誌に青山学院大学ピョートル・ポダルコの”ロシア人の被爆者”という論文が掲載され、初めてロシア国内でその存在が公表された[3][5]。
なお、公的に被爆者として認定されているのは2009年現在で4人だけである[5]。2015年、所在がわかっている最後の人物が亡くなり、ロシア人被爆者は全員亡くなったと考えられている[7]。
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被爆者
要約
視点
以下、わかっている情報のみ。
うち、公的に被爆者として認定されているのは4人
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遺品
- イコン
- 神戸ハリストス正教会にある、パラシューチン夫妻が残したイコンのリーザ(真鍮製のイコンの覆い)[9]。リーザのみが残りイコンそのものは残っていないが[9]、メディアでは被爆イコンとして扱われている[8]。13cm×10cmのものが2つ、1つはキリスト(ハリストス)、もう一つが幼子を抱く生神女マリアで、2つともイコンの部分が焼け落ち真鍮に焦げ跡も残る[8]。
- パラシューチン夫妻は被爆後に家に戻ると焼け跡からリーザを発見し、二人はイコンが自分たちの代わりとなって守ってくれたと強く感じたという[9][8]。
- ヴァイオリン
- 広島女学院が所蔵する、セルゲイ・パルチコフが愛用した被爆ヴァイオリン[10]。亡命、被爆、渡米とセルゲイのそばにあり、死後は娘のカレリアが所有しており、1986年広島女学院100周年記念の際に寄贈された[10]。壊れたまま展示されていたが、2012年に修復されている[10]。
脚注
関連項目
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