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建部武彦

江戸時代後期の福岡藩士 ウィキペディアから

建部武彦
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建部 武彦(たてべ たけひこ)は江戸時代後期の福岡藩士。武彦は別名であり、本名は自強(じきょう)。

概要 凡例建部 自強, 時代 ...

経歴

文政3年(1820年)建部自福の長男として生まれる。初め源兵衛、孫左衛門と名乗った。弘化2年(1845年)家督を相続。家禄700石。大組頭、陸士頭、無足頭を勤め、嘉永6年(1853年)御用聞役に任ぜられる。元治元年(1864年第1次長州征討の際、福岡藩の正使として、長州藩と征長軍総督徳川慶勝の間を周旋。また、都落ちをして長州に身を寄せていた尊攘派公家三条実美ら5卿が太宰府に引き移れるべく尽力した。翌慶応元年(1865年)に帰藩するも藩論は一変。佐幕派が主流を占め、加藤司書ら勤王党を救い切れず、逆に「私曲を企て国法を犯す」との罪で自宅禁固ののち、福岡城下の安国寺で切腹を命ぜられた(乙丑の獄)。

子の小四郎は、家督相続が許されず武部の姓に改称している。明治10年(1877年)、不平士族を糾合して西南戦争に呼応し斬首された(福岡の変)。

明治31年(1898年)、従四位を追贈された[1]

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脚注

参考資料

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