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式守錦太夫 (10代)
大相撲の行司 (1940-2007) ウィキペディアから
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10代式守錦太夫(じゅうだい しきもりきんだゆう、1940年8月6日 - 2007年2月10日)は大相撲の元三役格行司。二所ノ関部屋所属。佐賀県出身。本名:中島忠雄。
人物
1957年11月場所に木村忠雄の名で初土俵。序ノ口格で14代木村玉光 (のちの25代木村庄之助) の付け人になった。
若手時代は行司としての評価は芳しくなく、1958年5月場所では序ノ口格から見習いへの格下げ、翌7月場所で序ノ口格に戻るも木村弘行(のち幕下格)に抜かれ(1959年7月場所で抜き返す)、幕下格時代の1974年1月場所と1975年3月場所の2度、黒星(差し違え)数の関係で木村孔一(のちの三役格・木村一童)に抜かれ(のちに抜き返す)[1]、十両格に昇進するまで初土俵から22年掛かった。
幕内格に上がってからは裁きは正確であったが、2001年7月場所3日目、前頭7枚目玉乃島-同5枚目隆乃若戦で、隆乃若が寄り切りで勝った際に、錦太夫は逃げ場を失い、両力士の下敷きになって土俵下に転落、右足かかとを粉砕骨折し全治3ヶ月の重傷を負い休場した。また2005年5月場所3日目、土俵下で控えていた際、力士が転落して衝突し足を骨折、担当の2番は裁いたが翌日より休場するなど、不運が続いた。翌7月場所が停年前の最終場所であり出場が危ぶまれたが無事に出場した。
2003年1月以降は2005年7月の停年まで三役格の序列3位(上位5人目)だったが、2003年3月場所は木村咸喬、2004年7月場所は木村光之助、2004年11月場所は木村朝之助の休場により上位4人目の出場で三役力士を裁いている。
2005年5月場所初日の琴欧州-垣添戦で土俵下に転落、装束が破れたため一番のみで引き揚げた。
なお、裁き中の掛け声は、30代式守伊之助と似ている。
また、勝ち名乗りで力士の名前を呼び上げる際は、彼独特のリズムを持っていた。
2007年2月10日、急性心不全のため死去。66歳没。
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履歴
脚注
参考文献
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