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三役格行司

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三役格行司(さんやくかくぎょうじ)は大相撲行司における、最高位・立行司に次ぐ上から二番目の階級である。

概要

要約
視点

大相撲において力士の番付の三役といえば、大関関脇小結である為[注釈 1]、この番付に相当する格の行司である。実際の取組においては出場している力士や立行司の員数によっては、三役戦だけでなく横綱戦を裁くことも平幕戦を裁くこともありうる。本場所の本割では、十両格行司・幕内格行司及び式守伊之助と同様に、一日の取組の中で一人につき2番を裁く。幕内優勝決定戦で、出場の力士の最高位が、関脇・小結のいずれかの場合は、裁く行司も控えの行司も三役格行司が務める。横綱・大関が出場する場合は、裁く行司・控えの行司共に立行司が務める(前者は木村庄之助・後者は式守伊之助)のが慣例であるが、その場合でも立行司が在位上又は休場等で一人しかいない場合は三役格行司が控えに入る。在位上又は休場で立行司が一人もいない場合は、裁く行司も控えの行司も三役格行司が務める。但し、2022年(令和4年)11月場所優勝決定巴戦では、大関(貴景勝)、平幕(高安)、平幕(阿炎)の対戦であったが唯一の現役立行司であった41代伊之助は控におり、三役格2番手の16代庄太郎が行った2番全て合わせた(高安-阿炎、貴景勝-阿炎)

装束の菊綴と軍配の房紐の色は、総朱であり、白足袋草履履きで右腰後側に印籠を下げる。中でも草履は1960年(昭和35年)1月の規定改正によりすべての三役格行司に認められたものである(1927年(昭和2年)1月場所に三役格は全員草履を履かなくなり、1947年(昭和22年)6月場所から三役格のうち8代木村庄三郎2代木村正直のみ特別に草履が認められた[1])。草履は横綱土俵入りを引くことができる資格の象徴であり[2]、またこの年から副立行司が廃止されたことから、1960年以降の三役格行司は立行司に事故があるとき、または立行司が欠けたときにその職務を代行する地位であることが明確に示された。「土俵草履」(藁製)と「通い草履」(裏にゴムがついている)の2種類が用意され、当初は通い草履で土俵控えまで行きそこで付け人から土俵草履を手渡されていたが、1984年(昭和59年)5月場所からは花道奥で「通い草履」から「土俵草履」に履き替えることとなった[3]。印籠も1960年1月からすべての三役格に認められたもので、江戸時代の行司は中に気付け薬を入れていて土俵上で気絶した力士に対する処置を行っていたが、明治以降医師や医員が館内に詰めていて行司が処置をする必要がなくなったことから、現代では空の飾りであり、三役格以上のシンボルとなっている[4]

三役格行司の定員は定められていないが、立行司が2名揃っている場所では三役格を3名とすることが多く、立行司が不在もしくは1人しか在位していない場合には三役格を4人にして業務を分担することがある。また長く幕内格を務めた行司が停年直前の餞として三役格に昇進した場合は一時的に三役格を4人とすることがある。逆に三役格が欠けて2人以下になった場合は定期昇格を待つかもしくは臨時の昇格によってなるべく3名を満たそうとする[注釈 2]

土俵入りでは、幕内土俵入りの先導を幕内格行司と交代で務める事もあるが、立行司の在位人数又は出場人数と横綱の在位人数又は出場人数の関係で横綱土俵入りの先導を務める事もある。その時のみ、立行司同様に左腰[注釈 3]に短刀を帯びている。

年齢的に行司への入門が遅かったり、若手時代の失敗等で昇格が遅れた場合は、立行司への昇格に間に合わず三役格行司までで停年退職を迎える事もあるが、16代木村玉光の様に、立行司への昇格が決まっていながら自身の健康上の理由で立行司昇格を断ったり、2代式守伊三郎の様に若年で三役格まで昇格しながらその後次々に年下の後輩行司に序列を抜かされ最後まで三役格に留め置かれたままの者もいた。

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現役の三役格行司

2025年1月場所時点

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最高位が三役格行司だった過去の行司

脚注

参考文献

関連項目

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