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後藤嘉一

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後藤 嘉一(ごとう かいち、1905年明治38年)4月29日[1] - 1990年平成2年)7月3日[2])は、昭和時代から平成時代初期に活躍した新聞記者郷土史家。山形県の郷土史研究の先駆者として知られ、特に山形市史の編纂事業における中心的役割で評価されている[3][4]

小説家後藤紀一は弟であり、孫は劇作家後藤ひろひとである。

経歴

要約
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生い立ちと青年期

1905年(明治38年)4月29日、嘉一は山形県東村山郡山辺町の農家に、父嘉兵衛、母とみの間に生まれた[1]1920年大正9年)3月、15歳で山辺小学校を卒業し、当初は自作農を志していた[5]。しかし家業の農業が大正期の農業不況により困窮し、19歳で転身を余儀なくされた[6]

嘉一の初期の文学活動はこの時期からはじまっており、1919年(大正8年)9月には14歳で、同級生の高内寿郎、斎院喜一、峯田覚治らと文芸回覧月刊雑誌『楓』を第7号まで発行した[7]1923年(大正12年)8月には18歳で、同メンバーに近藤英雄を加えて同人回覧文芸誌『欠伸』を第6号まで出している[5]

新聞記者時代

1924年(大正13年)2月、「夕刊新山形」社に見習記者として入社し、汽車通勤で新聞記者としての活動を開始した[8]。以後、『日刊山形』『山形新聞』などに移りながら、約14年間にわたってジャーナリストとして地域の出来事を記録し、社会部から政治部を担当した[4][9]

この時期に、両羽銀行頭取の三浦新七博士が主宰する「山形県郷土研究会」に参加し、郷土史研究への道を歩み始める[10][11]安斎徹山形高等学校教授)、渡辺徳太郎山形市立商業学校長)等諸先生の指導を受け、郷土史研究に取り組んだ[10]1931年(昭和6年)には月刊誌『山形郷土研究』を創刊、第11号まで発行し、地域の歴史研究の普及に努めた[12]。記者として培った取材力と文章力は、後の歴史研究において貴重な基盤となっている[13]

『日刊山形』時代には、経営陣の会計乱脈により給与不払いを経験し、1930年(昭和5年)、1932年(昭和7年)の2度、山形市では初めての組織的なストライキにかかわることとなる[14]。その結果、1932年8月に治安維持法違反の嫌疑を受け、11月まで山形刑務所に収容、公判では執行猶予となった[12]

満州時代

1938年(昭和13年)、嘉一は国策としての満州開拓事業に参加した[15][4]。東京に単身赴任し、拓務省の外郭機関である財団法人満州移住協会に入社し、弘報部に勤務しながら月刊機関誌『新満州』の編集に当たった[15]

その職務を通じて大陸への往復を数回行い、終戦を迎えるまでこの事業に関与した[16]。その間、嘉一は満州開拓団を率いて北満入植地を視察するなど、山形県からの満州移民の歴史を間近で観察する機会を得た[16][17]。この経験は後に『山形県史拓殖満州編』として結実することになる[17]

また同時に、この時期嘉一は「佐倉浩二」のペンネームを使用し、小説戯曲等の作品を執筆し発表した[15]。戯曲『民族の旗』(四條)を創作し、協会の移動劇団「独力舞台」により上演された[15]日本文学報国会農民文学懇話会などに所属した他、満洲国協和会に入り特殊諜報任務にも就いたとされる[15]

戦後の活動

終戦後、嘉一は山形へ帰郷し、文筆活動を再開した[4]1952年(昭和27年)には「山形日報」の編集局長に就任し、同紙でコラム「こけしの眼」を毎日連載[18]1953年(昭和28年)には中央公民館建設運動を提起するなど、地域の文化活動を積極的に展開した[18]1955年(昭和30年)には、完成した山形市中央公民館の館長にも就任している[19]

郷土史家としての活動

1965年(昭和40年)から1983年(昭和58年)にかけて行われた山形市史編纂刊行事業に、嘉一は専任編集員として市史実務に従事した[20]。編纂にあたって嘉一は中心的役割を果たし、膨大な史料の収集・整理・執筆を主導した[17]

市史以外にも長年にわたり郷土史の探求と文筆活動を継続し、地域文化史、伝記など広範な執筆領域で多大な業績を残し、鋭利かつ正確な史観には定評があった[21][4]新聞雑誌に発表された研究成果や随筆の数は膨大で、地域文化の啓発向上に貢献した[4]。これらの功績に対し、嘉一は1968年(昭和43年)9月に清河八郎文化賞、1973年(昭和48年)3月に三浦博士記念文化賞、1974年(昭和49年)7月には山形市政80年記念文化功労表彰を受賞している[4]1979年(昭和54年)11月には勲五等瑞宝章が授与され、1980年(昭和55年)11月には山辺町文化功労者表彰も受賞している[4]

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主要著作

嘉一の研究領域は極めて広範で、地域文化史、人物伝、行政史、産業史、拓殖史など多岐にわたった[4]

単著

  • 『郷土の伝説』 - 1926年(大正15年)[4]
  • 『山形県議会史』 - 1951年(昭和26年)[4]
  • 『やまがた明治零年』 - 1960年(昭和35年)[4]
  • 『やまがた史上の人物』 - 1965年(昭和40年)[4]
  • 『山形県史拓殖満州編』 - 1971年(昭和46年)[4]
  • 『やまがた女人群像』 - 1978年(昭和53年)[4]
  • 『やまのべ風土記』 - 1988年(昭和63年)[22]

編著・共著

著作集

  • 『後藤嘉一著作集』(全6巻) - 1978年-1979年[4]

年譜

  • 1905年(明治38年): 4月29日、山形県東村山郡山辺町に生まれる[1]
  • 1920年(大正9年、15歳): 3月、山辺小学校卒業[5]
  • 1924年(大正13年、19歳): 2月、「夕刊新山形」社に見習記者として入社[8]
  • 1926年(大正15年、21歳): 9月、『郷土の伝説』を出版、処女作となる[8]
  • 1931年(昭和6年、26歳): 5月、月刊誌『山形郷土研究』を創刊[14]
  • 1939年(昭和14年、34歳): 11月、満州移住協会報道部勤務のため上京[15]
  • 1945年(昭和20年、40歳): 終戦により帰郷[23]
  • 1951年(昭和26年、46歳): 『山形県議会史』出版[4]
  • 1955年(昭和30年、50歳): 2月、山形市中央公民館館長就任[19]
  • 1960年(昭和35年、55歳): 『やまがた明治零年』出版[4]
  • 1965年(昭和40年、60歳): 10月、山形市史編纂事業開始、専任編集員就任[22]
  • 1968年(昭和43年、63歳): 9月、清河八郎文化賞[4]
  • 1971年(昭和46年、66歳): 『山形県史拓殖満州編』出版[4]
  • 1973年(昭和48年、68歳): 3月、三浦博士記念文化賞[4]
  • 1974年(昭和49年、69歳): 7月、山形市政80年記念文化功労表彰[4]
  • 1978年-1979年(昭和53年-54年): 『後藤嘉一著作集』全6巻刊行[22]
  • 1979年(昭和54年、74歳): 11月、勲五等瑞宝章[4]
  • 1980年(昭和55年、75歳): 11月、山辺町文化功労者表彰[4]
  • 1983年(昭和58年、78歳): 3月、山形市史編纂事業完了[24]
  • 1990年(平成2年、85歳): 7月3日、山形市の至誠堂総合病院にて永眠[2]

脚注

参考文献

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