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道光帝

清の第8代皇帝 (1782–1850) ウィキペディアから

道光帝
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道光帝(どうこうてい)は、の第8代皇帝ははじめ綿寧(めんねい)、即位後に旻寧(みんねい)と改めた。廟号宣宗(せんそう)。在世時の元号道光を取って道光帝と呼ばれる。

概要 道光帝 愛新覚羅旻寧, 王朝 ...
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生涯

嘉慶帝の次子として生まれる[1]

武勇に優れており、皇子時代、天理教徒の反乱(癸酉の変)時に紫禁城に踏み込んだ反乱軍を自ら討伐している[1]

嘉慶年間よりイギリスからのアヘン密輸が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもその害は甚だしかった。またアヘンの輸入増加により、それまで清の大幅な黒字だった対英貿易が赤字に転落し、国内の銀が国外へ流出することで国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の三貨制度と同様に銀貨銅銭が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われ、銭貨で見ると実質的な増税となった。

道光16年(1836年)、道光帝は林則徐欽差大臣に任命し、アヘン密輸取締りを命じた。翌年、林則徐は断固たる態度で禁輸に臨み、商人たちのアヘンを没収し、これを焼き払った(虎門銷煙中国語版)。道光20年(1840年)、イギリスはアヘン禁絶政策に反発して、艦隊を出して清を攻撃した(アヘン戦争[2]

アヘン戦争に大敗し、屈辱的な南京条約を結ばされた[3]。条約は香港島の割譲、五つの港の開港を求めるなどの内容であった[4]。1844年には同様に、フランス黄埔条約アメリカ望厦条約を結ぶことになった[5][6]。それ以降の清は、外に帝国主義の植民地活動を、内に軍閥による権力奪取を警戒せざるを得なくなった。

道光30年(1850年)に道光帝は崩御。在位は30年に及び宝算68。その直後に太平天国の乱が勃発する。

陵墓は清西陵にある。

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文化事業

系譜

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后妃

正室

側室

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脚注

登場作品

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