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成瀬之成
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成瀬 之成(なるせ ゆきなり)は、江戸時代初期の大名。下総栗原藩の第2代藩主。
生涯
慶長元年(1596年)、成瀬正成の次男として駿府で生まれる[1][4]。慶長16年(1611年)に徳川家康に初謁[1]。同年から徳川秀忠に小姓として仕え、武蔵国幡羅郡において1000石を与えられた[1]。大坂の陣にも出陣し、首1つを挙げる武功を挙げた[1]。慶長20年(1615年)閏6月21日、秀忠の参内に随行し、従五位下・伊豆守に叙任[1]。
元和2年(1616年)[1][2]ないしは3年(1617年)、父が尾張藩の附家老として犬山藩に移った際、父の下総国栗原藩領から1万4000石を分与され[1]、従来よりの1000石の知行と合わせて、之成は1万5000石を領する栗原藩主となる(分知の時期については栗原藩参照)。元和8年(1622年)、根来足軽100人を預けられる[1]。元和9年(1623年)7月の秀忠の上洛に随行[1]。同年、近江国において1000石を加増されて1万6000石となった[1][5]。また、与力として20騎を預けられた[1]。
寛永3年(1626年)より徳川家光に仕える[1]。寛永11年(1634年)、家光の上洛に随行したが、9月に病に倒れた[1]。家光は土井利勝を派遣して病気を見舞わせている[1]。同年10月28日死去、享年39[1]。長男の内記は早世しており、この年生まれたばかりの次男・之虎が跡を継いだ[1]。
墓所は千葉県船橋市の宝成寺[1][4][6]。之成の墓所には、之成死去の際に殉死した家臣3人(平井宇平次・青木左源太・藤井仁左衛門[4])も葬られている[6]。殉死者を副葬した大名の墓は珍しい[6]。
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備考
脚注
参考文献
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