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戦車第9連隊
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戦車第9連隊(せんしゃだいきゅうれんたい)は、大日本帝国陸軍の戦車連隊。
概要
要約
視点
1939年(昭和14年)8月1日、戦車第3連隊と戦車第5連隊より抽出した戦車・将兵で、満州の鉄嶺で編成。編成当初は、2個中隊編成。
同時に、陸軍公主嶺学校教導戦車隊も戦車第4連隊の担当で編成された。
ノモンハン事件に第1戦車団が出動時には、既に、戦車第3連隊・戦車第4連隊から戦車第9連隊・公主嶺教導戦車隊への将兵の転属人事は発令されていたが、ソ連軍兵力を楽観視して短期出動であろうとの予想で、転属予定将兵も出動させた。結果は多くの人員・機材を失い、第1戦車団は戦線離脱を命ぜられるが、これは、損害が多い等の戦術的結果の撤退ではなく、戦車第9連隊・公主嶺教導戦車隊の新編成の期日があり、人員・機材を供出しなければならないので予定通りに帰還したというのが理由である。
但し出動の結果はと言うと、戦車第3・第4両連隊の再建も必要であり、本連隊並びに公主嶺教導戦車隊の充足計画にも大きな影響が出たのは事実であった。
1944年、日米のサイパン島をめぐる攻防の中、マリアナ・パラオ諸島の戦い(サイパンの戦い)に援軍として全部隊が派遣された。
本連隊の数少ない生き残りだった伍長・通信手下田四郎によれば、連隊長・大佐五島正は残る戦車隊のみの独立した挺進攻撃を進言したが、第47師団参謀長・大佐鈴木卓爾の『戦車隊は歩兵に随伴して同時攻撃すべし』との命により単独の独立した挺進攻撃は叶わなかった。空爆と艦砲射撃に進軍を阻まれた歩兵は戦車隊の待つ南興神社への到着が大幅に遅れ、日本軍の総攻撃は予定時刻16日の朝を大幅に過ぎた17日午前2時30分に開始されることとなった。地形上、二列縦隊の形を取らざるを得ず、残存する戦車二個中隊24両に五島大佐率いる連隊本部戦車5両計29両は歩兵と戦車の戦闘群を作り、戦車に数名の歩兵を乗車させ4若しくは5両の組を作って約2キロ先のオレアイの米軍の無線局に向かって勇猛果敢に突進した。米軍の小銃、機銃、バズーカ砲の猛火を受け、M4シャーマン戦車との戦車対戦車の死闘を繰り広げ、待ち構える75ミリ対戦車速射砲を浴びつつ、無線局までいま一歩のところまで肉薄した戦車群だったが最後は軍曹仁科信綱の乗る1両、兵員24人を残すのみとなった。仁科軍曹より友軍の全滅、連隊長の戦死を告げられ、かくて輝ける戦車第九連隊は壊滅したのである。
→詳細は「サイパンの戦い § 日本軍総攻撃」、および「五島正 § 経歴」を参照
下田は本連隊玉砕後、3年余りもの間遊撃戦を続け、1947年(昭和22年)12月になって米軍に降伏。捕虜を経て復員を果たし、2018年(平成30年)1月6日に95歳で亡くなるまで、本連隊の戦いを後世に伝える活動に力を注いだ。
靖国神社遊就館と静岡県富士宮市の若獅子神社に展示されている2台の九七式中戦車(チハ車)は、下田と関係者の努力で帰還した連隊戦車の生き残りであり[1][2]、この2台のみが日本国内で現存する九七式中戦車となっている。
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人事
- 連隊長
参考文献
- 下田四郎『サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕』、光人社〈光人社NF文庫〉、2014年
- 佐藤和正『玉砕の島 太平洋戦争・激闘の秘録』、ベストセラーズ、1980年〈のち光人社NF文庫〉
脚注
関連項目
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