トップQs
タイムライン
チャット
視点
敷波 (吹雪型駆逐艦)
吹雪型駆逐艦 ウィキペディアから
Remove ads
敷波(しきなみ)は、日本海軍の駆逐艦。吹雪型(特型)の12番艦(特II型の2番艦)である。艦名は頻りに寄せる波に由来し、この名を受け継ぐ日本海軍の艦船としては敷波型駆逐艦「敷波」に続き2代目に当たる。
Remove ads
艦歴
舞鶴工作部で建造。一等駆逐艦に類別された。「磯波」「浦波」「綾波」と第19駆逐隊(第2艦隊第2水雷戦隊)を編成した。
日中戦争に際しては1937年(昭和12年)、上海、杭州湾上陸作戦に参加。
太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島・ニューギニアの諸作戦に参加。このうち、1942年のバタビア沖海戦では、米重巡「ヒューストン」の撃沈に貢献している[1]。その後、南方で海上護衛、哨戒活動に従事した。
1943年6月、マカッサルで爆撃を受けて損傷した軽巡洋艦「鬼怒」を軽巡洋艦「球磨」とともにスラバヤまで護衛した[2]。7月22日、スラバヤで空襲により5名が戦死した[3]。
1944年(昭和19年)8月1日、シンガポール沖にて座礁事故を起こすも、離礁に成功する。応急修理の後、本格的な修理を受けるためにヒ72船団の護衛に協力して内地に向かうことになった。しかし、9月12日0155、船団は米潜水艦「グロウラー」 (USS Growler, SS-215)の雷撃を受ける。船団護衛部隊旗艦の海防艦「平戸」に魚雷1本が命中[4][5]。平戸は閃光と水柱に包まれ、それが消えると同時に海上からその姿を消し[6]、護衛司令官の梶岡定道少将が戦死してしまう。旗艦を失い、混乱する船団は米潜水艦部隊の雷撃により被害が次々に増える中、敷波は対潜掃討を行っていたが、0655、北緯18度16分 東経114度40分の海南島東方洋上でグロウラーの再度の雷撃で魚雷2本が立て続けに命中して4分で沈没した[7]。駆逐艦長の高橋達彦少佐以下乗員200名余りが戦死し、乗員67名が海防艦御蔵に救助された。
1944年(昭和19年)10月10日に除籍された。
Remove ads
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』277-278頁による。
艤装員長
- 藤田類太郎 中佐:1929年9月5日 - 1929年11月1日
艦長
- 藤田類太郎 中佐:1929年11月1日 - 1931年12月1日
- 池田久雄 中佐:1931年12月1日 - 1932年11月15日 同日より予備艦
- (兼)河原金之輔 中佐:1932年11月15日[8] - 1932年12月1日[9]
- 中原達平 中佐:1932年12月1日[9] - 1933年11月15日[10]
- 直塚八郎 中佐:1933年11月15日 - 1934年1月10日[11]
- (兼)古木百蔵 中佐:1934年1月10日[11] - 1934年4月28日[12]
- 伊崎俊二 少佐:1934年4月28日[13][12] - 1934年11月15日[14]
- 佐藤康夫 少佐:1934年11月15日 - 1936年12月1日
- 天野重隆 中佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日[15]
- 折田常雄 少佐:1937年11月15日 - 1938年10月5日[16] ※1937年12月1日より予備艦
- (兼)大原利通 少佐:1938年10月5日[16] - 1938年12月15日[17]
- 山本岩多 中佐:1938年12月15日 - 1939年2月2日[18] ※同日より予備艦
- (兼)仙波繁雄 少佐:1939年2月2日[18] - 1939年6月20日[19]
- (兼)橋本金松 大尉:1939年6月20日[19] - 1939年7月20日[20]
- 大河原肇 少佐:1939年7月20日 - 1940年1月25日[21]
- 岩上次一 少佐:1940年1月25日 -
- 川橋秋文 少佐:1942年4月15日 -
- 道木正三 少佐:1943年6月20日 -
- 高橋達彦 少佐:1944年4月1日 - 1944年9月12日戦死
Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads