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日本大文典
ロドリゲスによる日本語文法書 ウィキペディアから
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日本大文典(にほんだいぶんてん、ポルトガル語: Arte da Lingoa de Iapam、現代ポルトガル語:Arte da Língua do Japão)は、17世紀初頭にポルトガル語で書かれた日本語の文法の書である。ポルトガルのイエズス会宣教師であるジョアン・ロドリゲスによって編集された。これは、現存する最古の日本語学書であり、中世後期日本語の貴重な参考資料となっている[1]。

経緯
出版まで
日本でのキリスト教の宣教活動は1540年代に始まり、その言語を学ぶ必要があった。宣教師らは辞書や文法書を作成した。初期の文法書は1580年代に書かれた模様だが、現存しない[1]。
10代にして来日したジョアン・ロドリゲスは、"ツーズ"(通詞)[2]と称されるほど流暢になり、イエズス会の監督官らだけでなく、豊臣秀吉や将軍徳川家康の通訳も務めた。彼が編纂した『日本大文典』は、現存する完全な日本語学書としては最古のものとなっている。1604年から1608年までの5年間に長崎で3巻出版された。語彙と文法に加えて、王朝・通貨・度量衡体系その他の商業情報の詳細が含まれている[3]。
その後
しかし、1608年にマカオで騒擾を起こした日本人船員が弾圧され、翌年の殿中の権謀を経て、徳川幕府は1610年初頭にポルトガル商人を朱印船やオランダ・スペインに置き換えることを決議し、ポルトガル船が襲撃された。このノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件後、ほとんどの宣教師が長崎に残ることを許可されたものの、ロドリゲスはイギリス人ウィリアム・アダムズに交代させられた[3]。
その後ロドリゲスは中国伝道に加わり、1620年に文法書の改訂版『日本語小文典』(ポルトガル語: Arte Breue da Lingoa Iapoa)をマカオで出版した[1][3]。これにより『日本大文典』での文法の扱いが改められ、日本語の主な特徴に関する明確で簡潔な法則を確立した[3]。
長崎において出版された『日本大文典』は、オックスフォード大学ボドリアン図書館とクロフォード伯爵家にそれぞれ所蔵されている2部のみが現存している[1][4][5]。この他に、レオン・パジェスによる写本がある[5]。
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内容
3巻で構成される[6]。
版
- Arte da lingua de Iapam by father João Rodrigues Originally published in Nagasaki: Collegio de Iapao da Companhia de Iesv, 1604-1608, first grammar of the Japanese language, in Portuguese, by the missionary João Rodrigues
- Arte da lingoa de Iapam (1604)
- Élémens de la grammaire japonaise [abridged from Arte da lingoa de Iapam] tr. et collationnés par C. Landresse. [With] (1825)
日本大文典は土井忠生によって1955年に日本語訳された[3][4]。
日本小文典は、M.C.ランドレスによって『Elémens de la Grammaire Japonaise』として1825年にフランス語訳され、翌年に付録が追加された[3]。
脚注
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク
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