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日野俊基

鎌倉時代後期の公家 ウィキペディアから

日野俊基
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日野 俊基(ひの としもと)は、鎌倉時代後期の公家藤原北家真夏日野家刑部卿日野種範の子。官位従四位下右中弁[1]従三位

概要 凡例日野俊基, 時代 ...

経歴

文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。正中元年(1324年)の正中の変で、討幕を計画したと疑われ、同族の日野資朝らと逮捕された。捜査と審議の結果、佐渡に流刑となった資朝とは違い、俊基は冤罪と判定された。その後、京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられる。得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。

辞世の詩は 古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清[2](古来の一句 死も無し生も無し 万里雲尽きて 長江水清し)

明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、明治20年(1887年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。

『太平記』

『太平記』では、後醍醐の宋学志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。そして、諸国を巡り反幕府勢力を募っていたが、その後に起きたのが正中の変であるという。しかし、史実としては、正中の変が本当に討幕計画だったかどうかは確実ではない。

鎌倉に護送される途中の菊川宿では、承久の乱で似た境遇であった葉室宗行を悼んで哀歌を残している[3]

墓所

葛原岡神社の南にある。また昭和2年(1927年4月8日に国指定史蹟に指定され、財団法人俊基卿遺蹟保存会が遺跡の保護・管理を行っている。

官歴

関連作品

脚注

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