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日野内光

戦国時代の公卿。徳大寺実淳の次男。正三位・権大納言、贈従一位・左大臣。日野家26代 ウィキペディアから

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日野 内光(ひの うちみつ)は、戦国時代公卿藤原北家閑院流庶流徳大寺家13代・徳大寺実淳の次男。官位正三位権大納言従一位左大臣日野家26代当主。

概要 凡例日野内光, 時代 ...

経歴

明応4年(1495年)、日野家24代・日野勝光の子・政資が嗣子なくして没し、その生前の遺言によって養子に入り日野家を継いだ。

それよりまもなく元服したものと思われ、日野家の慣例に倣って11代将軍・足利義高(義澄)偏諱を受け日野高光(たかみつ)、文亀2年(1502年)7月には義高から改名した義澄より重ねて1字を与えられて日野澄光(すみみつ)を名乗ったが、義澄が辞職し前将軍の足利義稙が将軍に復職すると(永正5年(1508年))、後に内光に改名している。義稙の復帰を助けた一人である細川高国は内光の従甥(叔母の孫)で縁戚関係にあり、内光自身もこの頃には義稙寄りで、改名の理由もそのためであったと考えられる。

大永1年(1521年)には参議左大弁に任ぜられ、従三位に叙任。大永3年(1523年)には権中納言となり、正三位に叙任。更に大永6年(1526年)には権大納言となり、ここまで順調に昇進を重ねた。大永7年(1527年)の桂川原の戦いで内光は細川高国側(=12代将軍・足利義晴(義澄の子)側)について敗北し、敗走する途中で討ち死にした。享年39。

内光死後の永禄2年(1559年)2月11日には従一位左大臣を追贈(『瑞光院記』同日条による)される。尚、それより前の天文24年(1555年)には跡を継いだ子・晴光やその実子・晴資も早世して内光の系統は断絶しており、広橋家から輝資が養子入りしている。

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系譜

出典

  • 『朝日日本歴史人物事典』
  • 『瑞光院記』

外部リンク

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