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明治神宮競技大会柔道競技
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概要

明治神宮競技大会における柔道競技は、第1回大会(1924年)から第13回大会(1942年)まで実施された。
明治神宮競技大会は後の国民体育大会柔道競技に相当する大会であり、まだ全国規模の試合が無かった1920年代においては事実上の柔道日本一決定試合であった。
とはいえ黎明期の明治神宮大会では、講道館と共に柔道の大御所と知られた大日本武徳会が外来スポーツと同様に“競技”として扱われる事を嫌って選手を派遣しなかった事は剣道競技や弓道競技の例に漏れず、当初の神宮大会には講道館側の選手のみが出場していた。 これに対し第1回明治神宮大会柔道競技の青年組選手権者となった二宮宗太郎が武徳会側に挑戦状を叩き付け、これに応じた武徳会教士の栗原民雄と1925年5月5日の武徳祭にて30分以上の激しい攻防の末に引き分けるに至った。当時の柔道界ではこの名勝負の評が広まり、講道館側で「京都に栗原あり」と、武徳会側では「二宮強し」と互いに讃え合い、1926年の第3回大会からは武徳会の選手も出場する事となって、文字通り全国レベル唯一無二の選手権となった経緯がある。
その結果、日本柔道選士権大会(1930年以降ほぼ毎年開催)や昭和天覧試合(不定期開催)等の試合が実施されてからも、戦前の柔道家にとって明治神宮大会はそれらと共にビッグタイトルの1つという格式を堅持し、牛島辰熊・大谷晃・木村政彦等の戦前・戦中を代表する柔道家はこの大会での活躍を以って全国にその名を轟かせる事となった。
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試合形式
計13回開催された大会の出場枠の設定は必ずしも一定ではなく、段位別で覇を競った大会(第3回大会)があれば警察官・軍人など職業別の出場枠があった大会(第10回大会ほか)もあり、柔道競技の全国規模の大会は試行錯誤段階であった事が窺える。
団体戦については2人制や3人制、5人制によるものがあった。ただし、「個人戦義勇組」「府県順位対抗」という2区分が存在した初期の青年団の部(第2-5回大会)では、まず個人戦で各府県の出場者が義組と勇組に分かれてそれぞれ総当りの予選ならびに決勝リーグ戦を行い、各組の代表者1名が優勝戦を競った。一方の府県対抗順位とは、個人戦予選で各組に出場した代表選手の得点を合計し府県別に優劣を付けた参考記録であり、実際に団体戦を行って覇を争ったものではない。
個人戦では当初年齢別を軸として20歳までの若者を「少年組」、20-30歳までを「青年組」、それ以上は「壮年組」へエントリーする事となっていた。その後、第6回大会からは学校区分別に変更されている。 同じ出場枠で団体戦と個人戦が行われる場合に、先に団体戦で予選リーグや決勝リーグを行い、個人戦では団体戦で4戦以上戦った選手の中から全勝した者だけを集めて個人戦の決勝リーグを行った事もあり(第8回大会青年団の部、第10回大会一般の部ほか)、限られた期間の中でを効率良く日程をこなすための工夫も見られる。
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試合審判規程
1928年の書籍『柔道精解』[1]や1930年の書籍『明治神宮競技規則 再版』[2]に掲載された審判規定は講道館や大日本武徳会[3]とは次の点が異なっていた。
- 固技への見込み一本なし
- 膝関節技は足緘のみ禁止
- 下からの三角絞、腕挫三角固全面禁止
- 足挟禁止[4]
- 肘関節技の時、肩関節が極まってもよい
- 膝行や猪木アリ状態禁止
- 掛け逃げ禁止
- 引き分け狙いの長時間の帯掴みや片襟片袖規制
- 専ら引き分け狙いの動作禁止
- 双手刈などの脚掴みへの規制
- 固技で帯や襟に足を掛けること禁止
- 顔に手足を掛けること禁止
- 故意に場外に出ること禁止
- 絞技に対し指を取ること禁止
2, 3, 5 以外はのちに国際柔道連盟の審判規定にも導入されている。
結果
第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回
第12回
第13回
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脚注
参考文献
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