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朝山意林庵
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朝山 意林庵(あさやま いりんあん[1]、天正17年9月8日(1589年10月17日) - 寛文4年9月21日(1664年11月8日))は江戸時代前期の儒学者。幼くして出家した後、儒学に転じ、細川氏等に仕え、後光明天皇の進講を務めた。排仏論を唱えた仮名草子『清水物語』の著者とされる。
生涯
天正17年(1589年)9月8日、山城国京都に九条家諸大夫朝山宮内少輔久綱の子として生まれた[2][3]。幼名は藤丸。慶長元年(1596年)8歳で出家し、三井寺、東福寺等に歴住し、随心院門跡とも関係があったと思われる[2]。なお、この時両親と死別したというのは誤り[4]。
慶長15年(1610年)、豊前国に下って小倉藩主細川忠利に仕え、慶長18年(1613年)帰京して中御霊に住んだ[2]。慶長16年(1611年)、朝鮮から来日した儒学者李文長の学統を継いだ[2]。
寛永5年(1630年)居を祇園林に卜し、寛永7年(1632年)移った[2]。『閑散余録』によれば、当初九条家諸大夫を務めたが、致仕し、安井の北隣、曼珠庵という地に隠居したという[2]。寛永7年(1632年)、駿河国に下って駿府藩主徳川忠長に仕えたが、意見を聞き入れられなかったため、翌年母の病を理由に帰京した[2]。寛永11年(1634年)より、熊本藩に転じていた細川忠利、細川光尚から500石の賄料を受け取った[2]。後に長講堂長老となる[5]。
二条康道の推挙により、承応2年(1653年)2月2日後光明天皇に『中庸』を講じた[2]。この後、5代祖朝山利綱が白川伯王家の白川富秀次男であることを根拠に北白川三位入道を名乗り、本姓を源氏と改める[4]。従五位下相当の右馬頭入道を名乗る短冊が伝わり、この後に三位に昇ったとも考えられるが[2]、これら位階が正式なものかは不明である[5]。『中庸』の講義は3月7日で終わり、4月22日からは『周易』を講じたが、6月23日の内裏火災で中断し、翌年2月に再開した[5]。
承応3年(1654年)の天皇の崩御後は隠居し、加賀藩に出仕の誘いも断ったが、大垣藩主等が教えを受けに訪れた[2]。寛文4年(1664年)9月21日、病死した[2]。辞世は「万巻胸中無一物。六経心裏有衆人。秋風吹散遊魂変。変動寂然清月新。」[2]墓所は長講堂[2]。
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家族
脚注
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