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木下利次
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木下 利次(きのした としつぐ)/ 羽柴 利次(はしば としつぐ)は、江戸時代前期の旗本。豊臣宗家の社稷を継ぐことを認められた。旗本寄合・近江木下家の初代当主。幼名は長橘丸、通称は左近[2]。
来歴
備中国足守藩主・木下利房の次男として生まれる。叔父に羽柴秀俊として豊臣家にいた小早川秀秋がいる。大坂の陣により豊臣秀頼を当主とする豊臣宗家が滅亡したのち、豊臣家(羽柴家)が断絶することを愁いた大叔母の高台院の養子となって「羽柴利次」となり、高台院のもと公家町の京都新城で養育された[3]。
後年、利次が書いた覚書によれば、大坂夏の陣直後に高台院が利次養子のことを徳川家康に願い出たが拒否されたという。その後、元和9年(1623年)になって、徳川秀忠・家光父子が上洛した際に高台院は利次を目通りさせて再度養子縁組を願い出たところ、秀忠の意向で許されることになった[2]。翌寛永元年(1624年)、養子縁組の御礼のために江戸城の家光の元に参勤したが、高台院の病状悪化の知らせを聞き、急遽京都に戻ることが許された。同年9月に高台院が死去している[2]。
高台院が死去した後、幕府により苗字を「木下」に改姓させられた[3]。木下家となった羽柴家は高台院の(化粧領・養老料)1万5000石の遺領を大幅に削られ、近江国野洲郡・栗太郡の3000石と豊臣家の社稷を相続することのみが許され、一旗本となった[3]。利次は、豊臣宗家を継いだことで傲慢な振舞いがあり、木下一族から義絶され、これは6代目の利常の代になるまで和解することはなかった[4]。 貞享4年(1687年)に致仕して家督を長男の利値に譲り、元禄2年(1689年)に83歳で死去した[5]。墓所は、四男・崇達が僧となった金地院にあり、「家門元領豊臣姓木下氏民部墓」と刻まれている。
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子孫
脚注
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