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木曾義利

安土桃山時代、江戸時代の人物。木曾氏当主(大名としては最後)。木曾義昌の嫡男 ウィキペディアから

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木曾 義利(きそ よしとし)、天正5年(1577年[1] - 寛永17年(1640年[2])は、安土桃山時代江戸時代の人物。武田信玄の外孫。大名としての木曾氏の最後の当主。

概要 凡例木曾 義利, 時代 ...

経歴

要約
視点

父の木曾義昌は、武田家滅亡後は、信長に出仕した。信長は義昌に梨子地の太刀と黄金100枚を与えた。

さらに信濃で筑摩郡安曇郡の二郡を与えるとの内命を伝えたとされ[3]深志城に城代を置いて木曽の他・松本・安曇郡支配の拠点とした。

しかし僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も混乱した。

当時、北信濃海津城主となっていた森長可は、高井郡水内郡更級郡埴科郡の所領を放棄して美濃金山城へ撤退しようとした。

しかし、義昌、遠山友政(久兵衛)、肥田忠政(玄蕃)、平井頼母久々利頼興(土岐三河守)は、森長可の美濃への帰国を喜ばず、

遠山久兵衛は、義昌と相談し、長可の帰路を捕らえ、木曽福島で暗殺することを計画し、もし不成功に終わったら恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。

海津城下で商売をしていた金山の道家彌三郎は、このことを知って、長可に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」と密告した。

そこで長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着予定日を書いた書状を義昌に送ると、わざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。

義昌は驚き、一礼して書院に下がり、嫡男の岩松丸(後の義利)を給仕として茶を差し出した。

長可は茶を飲まず、養子にしたいと言って岩松丸の手を取って身柄を拘束したうえで出発した。

意表を突かれた義昌は、やむなく千旦林村に伏兵していた遠山友忠等の諸将に、岩松丸が人質として連行されたことと、既に暗殺計画は知られているので森長可の軍勢には手出しをしないように懇願した。

遠山友忠は、ここまで準備していたのに撤兵するのは残念であると反対し、森長可を討つべしと主張したが、平井頼母や肥田玄蕃に宥められて断念した。またここで義昌の恨みを受けるようになれば、後に問題が残るとして撤兵した[4]

森長可は、無事に千旦林村を通り過ぎて、大井村へ到着し、そこで人質として連れて来た岩松丸に、二人の士を付けて木曽福島城へ送り届けて、金山城へ帰った。

天正18年(1590年)、小田原征伐の際に父の義昌は病気であったために、当時14歳の義利を派遣したが合戦に遭遇しなかった。

同年、父の義昌は、徳川家康関東移封に伴い、先祖代々所領としていた信州木曽谷から下総海上郡阿知戸1万石(網戸、現在の旭市)へ国替となり、木曽谷は太閤蔵入地[5]となり、犬山城主であった石川光吉が木曾代官も兼務して支配した。

文禄4年(1595年)、父の義昌が没したことにより家督を相続したが、父の遺骸を城の西方にあった湖の椿海に沈め、異例の水葬にした。

また、義利は粗暴な振る舞いが多く、父の義昌が織田信長から拝領した「鈴蟲」という轡を、叔父の上松義豊(上松蔵人)が、掠め取って返さないことを理由に殺害したり、愛妾が小姓と密通したと思い込み糾明もせず、両人を牛裂きの刑に処したりした。

それらのことを耳にした家康によって、慶長5年(1600年)、改易処分となり、下総阿知戸(網戸)1万石を収公[6]された。

その後、小山評定の時に家康のもとへ参じて、東軍に加わって中山道を西に進軍する軍勢に加わりたいと申し出たが、本多正信が、義利は愚かなので、件の手段には用は足るまい。それよりも木曾氏の重臣であった山村良勝千村良重馬場昌次らを用いるべきと進言したため、義利は退けられて加わることができなかった。

その後、木曽谷に居た、母・真竜院(真理姫)の下へ赴き、隠棲したともいわれるが、阿知戸(網戸)を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。

東国から諸国への行脚を思い立ち、木曽を通って四国に至り讃岐国で死去したと伝わる[7]

また京都に行き剃髪して宗億と号し、蒲生氏に寄宿したとされる[8]

また松平定勝に仕えて、寛永17年(1640年)5月16日に、伊予国松山で没したとする説もある[9][7]、確証は無い。

長崎県平戸市大島村(的山大島)では義利が流浪して、長崎県壱岐島湯本に居た時に、平戸藩松浦氏より的山大島の政務役に任ぜられ、井元弥七左衛門義利と改名しその地を治め寛永3年(1626年)12月14日に没した[10]と伝えられている。

前平免神山地区に井元家初代(義利)、二代の墓と木曽家先祖に対する水向塔がある。

井元家は三代の義信が「井元鯨組」を創業し大島村神浦を整備して捕鯨を行っており、井元家墓地には九州最古の鯨供養塔もある。

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弟(義昌三男)の義春は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ、大坂城に入って戦死した[11]

もう一人の弟(義昌四男)の義一(義通)も、母の真竜院と共に木曽谷で隠遁したとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。

子の玄蕃義辰(よしとき)は、後の伊予松山藩松平家に仕えたが、後に故あって浪人となり、その子らは最終的に元は木曾氏の一族で、尾張藩の重臣となっていた千村平右衛門家山村甚兵衛家を頼り、尾張藩ほかに召し抱えられた[2]

一族

大名家としての木曾氏は消滅したが、一族(重臣)であった千村氏山村氏馬場氏などの木曾衆は、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康のもとで東軍に参加し東濃の戦いで勝利したことにより旗本や尾張藩の重臣となった。

参考文献

  • 笹本正治『信濃の戦国武将たち』宮帯出版社、2016年。
  • 『木曽福島町史 第一巻 歴史編』 第三章 義仲興起より木曾氏滅亡迄 第二十三節 義利 p160~p161 木曽福島町教育委員会 1982年
  • 『西筑摩郡誌』 二六、木曾伊豫守義利 p575~p576 西筑摩郡 1915年

脚注

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