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本野精吾
建築家 ウィキペディアから
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本野 精吾(もとの せいご、1882年(明治15年)9月30日 - 1944年(昭和19年)8月26日)は、大正期から昭和初期にかけて京都を中心に活躍した建築家[1]。日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとり。
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主な経歴
- 1882年、読売新聞社創業者・2代目社長の本野盛亨の5男として東京に生まれる。兄に、寺内内閣で外務大臣を務めた本野一郎、早稲田大学教授・4代目読売新聞社社長を務めた本野英吉郎、電気工学者で京都帝国大学教授を務めた本野亨がいる。
- 暁星中学校、第一高等学校を経て、1906年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に岡田信一郎、松井貴太郎、横濱勉などがいる)、三菱合資会社(三菱地所)技師となる。1908年に武田五一の招きにより京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身)教授となる[2]。
- ドイツ留学でモダニズムの洗礼を受け、1927年に京都で結成された日本インターナショナル建築会(当初の同人は、本野精吾、上野伊三郎、石本喜久治、中尾保、伊藤正文、新名種夫の6名)に参加し、関西のインターナショナル・スタイル(国際様式)の中心的人物として活躍した。建築のみならず家具や舞台・船室の設計など幅広い仕事を手がける。川崎造船デザイン顧問などを務めた[3] 。エスペランティストとしても知られている[1]。
- 中村鎮式コンクリートブロック造で有名な「本野精吾自邸」は、三男・本野東一(京都高等工芸学校図案科卒、大阪芸大教授)一家が同居して、維持管理を続けている。東一の歿後は長男・本野陽(本野精吾の孫)が引き継いでいる。
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主な作品
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関連項目
参考文献
外部リンク
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