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岡田信一郎

建築家 ウィキペディアから

岡田信一郎
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岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)11月20日 - 1932年(昭和7年)4月4日)は、大正昭和初期に活躍した建築家である。大阪市中央公会堂(原案)や東京府美術館歌舞伎座明治生命館などの設計作品で知られる。

概要 岡田信一郎, 生誕 ...

概要

東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、今和次郎今井兼次三井道男吉田五十八岡田捷五郎(実弟)、村田政真吉村順三ら多くの後進を育成した。

病弱なため外遊をする機会はなかったが、海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。

設計作品には鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、日本における西欧様式建築の最高傑作と評される明治生命館、イギリス風邸宅建築の鳩山一郎邸などがある。和洋を問わず、歴史的な建築様式を自在に用いた建築家である。

理論面では新しい時代の建築表現を指向しながら、実作品では過去の様式を多用しており、モダニズム建築の立場から言行不一致と評されることもある[1]

明治建築の文化史的な意義を認め、関東大震災で大きな被害を受けたニコライ堂(コンドル設計)[2]日本赤十字社本社(妻木頼黄設計)などの修繕も行っている。

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年表

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主な作品

その他

  • 洋画家松山省三平岡権八郎が1911年に開いたカフェー・プランタン(「春」の意味で小山内薫 が名付け親。「日本初のカフェー」とされる)の内装を古宇田實とともに担当した[6]
  • 妻は日本一の美人と謳われた、もと赤坂芸妓萬龍(本名田向静)。結婚が決まると当時の新聞で大きく取り上げられた[7]
  • 1920年(大正9年)に牛込区神楽町(新宿区神楽坂)へ転居し、事務所(岡田建築事務所)も自宅に置いた。自宅跡は東京理科大学の敷地の一部になっている。

著作

まとまった著作集はない。

  • 「建築美学講話」[8](『早稲田文学』1911.7)
  • 都市と建築」(国民新聞 1916.1.11-1.14)
  • 「日本住宅及茶室」[9](『アルス建築大講座』12、アルス、1927年)

参考文献

  • 「岡田信一郎君を弔ふ」(『建築雑誌』1932年5月号特集)
  • 岡田捷五郎他「人物風土記 粋な建築芸術家・岡田信一郎」(『建築士』1960年9月号)
  • 谷川正己「岡田信一郎の建築観について」(『学会東北支部研究報告』1 1962年7月号)
  • 神代雄一郎「人気のあった岡田信一郎」[10](『近代建築の黎明』美術出版杜、1963年)
  • 『日本の建築 明治大正昭和8 様式美の挽歌』(伊藤三千雄・前野まさる著、増田彰久写真、三省堂、1982年) - 前野による評伝、年譜、現存作品を掲載。
  • 大川三雄「様式美に進んで殉じた鬼才 岡田信一郎」[11](『近代日本の異色建築家家』朝日新聞社、1984年)
  • 橋本久道「美校ケンチクカを育てた精神 岡田信一郎」(東京藝術大学建築科百周年誌編集委員会『ケンチクカ』2007年)
  • “握飯”と“おかず” 岡田信一郎の建築作法 (本橋仁、中谷礼仁、LIXIL eye no.6 2014.10) - 鳩山会館、護国院庫裏、ニコライ堂を中心に紹介。
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関係資料

  • 国立国会図書館 - 遺族から寄贈された建築設計図面を所蔵(岡田信一郎・岡田捷五郎建築設計原図集成
  • 東京芸術大学大学美術館 - 岡田信一郎及び梶田恵[12]の家具図面を所蔵(岡田信一郎設計建造物家具資料、梶田恵家具及工芸品設計図
  • 東京芸術大学附属図書館 - 岡田信一郎旧蔵の洋書を所蔵(OPAC(詳細検索)から請求記号"OKADA"で検索)

脚注

関連項目

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