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朱楽菅江

1740?-1799, 江戸時代後期の戯作者、狂歌師 ウィキペディアから

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朱楽 菅江(あけら かんこう、元文5年10月24日1740年12月12日)? - 寛政10年12月12日1799年1月17日))は、江戸時代後期の戯作者狂歌師。大田南畝唐衣橘洲[1]と共に天明狂歌ブームを築き、狂歌三大家[1]といわれた[2]。本名は山崎景基(後に景貫と改名)、字は同甫・道父、通称は郷助[3]。狂名は朱楽菅江(漢江)、俳号は貫立、号は朱楽館・准南堂・芬陀利華庵、戯作号は朱楽館主人[3]。生年は1738年[1]とも。

生涯

江戸牛込の生まれ。幕臣内山椿軒に和歌を学ぶかたわら、雑俳にも親しんだ。狂歌は安永初め頃から、同門の大田南畝唐衣橘洲平秩東作らと始めた[3]。妻の節松嫁々朱楽連を結成し、狂歌界の巨頭として『故混馬鹿集』(1785年)『江戸爵』(1786年)の編者となる一方、1783年に『万載狂歌集』を編み、1785年に『狂言鶯蛙集』を発刊[1]。1788年、和歌に近い立場で『鸚鵡盃』『八重垣縁結』を撰び、寛政期には和歌への傾斜を深め、1791年『狂歌大体』を著した[3]

戯作は大田南畝に刺激され、『売花新駅』(1777年)『大抵御覧』(1779年)『雑文穿袋』(1779年)を執筆[3]。その後、川柳の牛込蓬莱連へ入り込み、1780年より『川傍柳』出版に協力し、初編に19句、2編に15句を収めている[3]

作品

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脚注

参考文献

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