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東京シティファイナンス

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株式会社東京シティファイナンス(とうきょうシティファイナンス)は、かつて存在した西友系列のノンバンク

概要 種類, 略称 ...

歴史

要約
視点

西友ファイナンスとして発足

1980年前後から、小売業では企業独自にハウスカードを持つ傾向が広がり、西武百貨店ではすでに西武カストマーズカードというハウスカードを発行していた。しかし、同じグループであった西友にはハウスカードが存在しなかった[4]。そこで自社カードへの必要性に沿って、西友も独自に西武ニューカストマーズカードを1979年4月から発行することなった。この西武ニューカストマーズカードの発行元として「西友ファイナンス」が誕生している[4]。設立時の資本金は4億円[1]、設立時の会長は堤清二、社長は高丘季昭であった[5]

だが、ハウスカードにかかわる発行コストは極めて高く、西武ニューカストマーズカードを発行し続けるための別の収益源が必要であった[6]。そこでキャッシングサービスや個品割賦の債権買取ビジネスなど、カード発行周辺業務を西友グループ内で行うことの可能性が検討された[7]。しかし、セゾングループのなかでは、すでに西武クレジット(現・クレディセゾン)のクレジットカウンターが西友店内でも展開されており、またキャッシングサービス、債権買取業務などが行われていたので、西友ファイナンスが西武クレジットと競合する分野に進出することは得策ではなかった[7]。また1982年当時は、いわゆるサラ金問題が社会問題化しており、サラ金に近いような業務が、企業イメージを低下させる懸念があった[7]。このため、西武ニューカストマーズカードの発行を行うため設立された西友ファイナンスであったが、1983年3月にはカードの発行を中止し、その業務は西武クレジットに移管された[7]

西武クレジットとの競合を避け、西友ファイナンスとしての経営方針について検討した結果、個人向けを対象としない企業向けファイナンスビジネスの展開に進路を見出した[7]。これが法人融資事業である[7]。そして一方では、提携企業社員に対する簡便低利、使途自由な融資制度を商品化した[7]。さらにキャッシュカードによる汎用性の高い現金自動払出機(CD)を独自に開発し、展開した[3]。こうした3つ方向が西友ファイナンス発足当初の主たる業務であった[3]

子会社

企業内社員融資制度を代行する専門会社として、設立間もない1985年4月、日本興業銀行グループ、協和銀行グループ、東京都民銀行グループ、そしてセゾングループの共同出資で日本社員融資を設立している[8]。また1988年3月には、香港金融子会社(セイユー・ファイナンス・アジア・リミテッド)を国際金融ビジネスの拠点として設立した[3]。セゾングループがアジアNIESでの開発輸入事業に力を入れており、これに密着した融資事業の展開であった[5]

東京シティファイナンスに

1989年9月、西友ファイナンスは西武百貨店子会社の(旧)東京シティファイナンス(1985年設立)、日本社員融資と合併して新しい東京シティファイナンス(TCF)として発足した[9]。このとき、すでに(旧)東京シティファイナンスは、のちに約750幾円と判明することになる不良資産を抱えており、これらもすべて引き受けた[9]。西友の事業のなかでは、多角化部門に属したTCFは、高丘季昭とそのスタッフの専管であり、本業である小売の主担当とは一定の分担体制にあった[9]。詳細な情報は、高丘をとりまくサークルの外に出ることはなく、これは堤清二やセゾングループ中枢に対しても同じであった[10]。セゾングループの金融事業の核は客観的にはクレディセゾンであったが、ここにもう1つの核ができて、バブル末期に膨張してしまうことになる[10]。そのもとで、西友ファイナンス時代の初代社長である高丘のあと、3代にわたって第一勧業銀行出身の社長が続き、それを西友の経理出身者が補佐する体制をとった[10]。TCFは西友の連結対象であったが、実質的に西友による経営管理は弱く、第一勧銀の出身者に委任していた傾向があった[10]

銀行系ノンバンクの貸金業は、銀行本体では担当しにくい案件の迂回融資的な役割を含んで、バブル期に不動産関連融資を中心に膨張し、のちに本体にも重い負担を強いて破綻にいたらしめたケースも多い[2]。TCFは銀行系ではないケースであるが第一勧銀の系列にあって、それと同じ機能を一部担い、多角化を図った西友や、セゾングループに重い負担を強いることになった[2]。TCFに銀行からの回し案件は、直接的な大口のものはなかった[2]。ただ、融資審査はトップダウンでなされており、機構としての審査体制は極めて不十分であった[2]。店舗は東京本店と関西店の2つしかなく、本店による関西店の管理は弱かった[2]。そして、拡大した融資には関西店の独走の部分もあった[2]

損失処理

バブルが崩壊すると、同様の活動をした他の企業とまったく同じように、TCFは巨大な損失を抱えることになった[11]。法人向け不良貸付債権が損失の中心であったが[12]、課題先債権の中には尾上縫債権も含まれていた[12]。周知のように同人は大阪料亭の女将で、バブル期に株式投機を中心とする財テクで名を馳せ、大手を含む多数の金融機関が一個人に対して数千億円を融資し、のちに不良債権化して違法行為も摘発された[12]

TCFの処理は、親会社である西友が担当した[13]1997年時点では、TCFに主体的な整理方針がなく、金融当局は破産特別清算など法的処理方針に傾いていた[13]。しかし、法的処理では銀行団等の負担が大きく、マーケットの信任も失うことから私的整理再建型に落ち着いた[13]1998年に入ると、危機的な状態が顕在化するとともに、和田繁明がグループを代表する対銀行の交渉役から退き、代わって渡辺紀征西友社長が、交渉の前面に立つことになり[14]、銀行団との交渉が1999年3月に合意成立したことを受けて、同年度内に整理された[14]。その内訳は、銀行団の支援(債権放棄)が2000億円、親会社である西友の支援が2800億円、TCFの自助努力分が1300億円、計6100億円となった[14]。西友とTCF本体の負担の中には、セゾングループ各社による2社の増資引受を通じた支援が含まれている[15]。西友は、この支援を含めてファミリーマート良品計画の優良子会社[16]、グループで買収し経営を主導したインターコンチネンタルホテルズの株式売却のほか、自らの内部留保の取り崩しで処理を行った[17]。こうして、TCF問題は2000年には決着したが、西武百貨店の業績低迷で、実質的にグループの旗艦企業となっていた西友は、これによって体力を消耗させることになり[17]2002年3月、ウォルマート・ストアーズと包括業務提携を結び外資の傘下に入った[18]

売却

処理の結果、TCFは業績が黒字転換すると同時に、西友を傘下に収めることなったウォルマートの「本業以外は売却・整理せよ」の意向もあり、急いで売却交渉が進められ、約2000億円の資産を有していたのにかかわらず、1500億円で投資会社ファンドローンスターに、2002年11月に売却された[19]。その後、TCFの資産のうち一部優良資産は外部に売却され、そのほかはローンスター傘下にあった東京スター銀行および資産管理会社に分割され、継承された[19]

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脚注

参考文献

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