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松平定知 (旗本)
江戸時代の旗本 ウィキペディアから
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松平 定知(まつだいら さだとも)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。
略歴
三河国刈谷藩2万石を治めた松平定政の次男として誕生した。母は永井尚政の娘。
2代藩主となるはずだったが、父の定政が慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光の死去後、幕政に意見しさらに無届で東叡山寛永寺で遁世落髪したため、狂気の沙汰として改易された。定知ら家族も父に連座して蟄居させられ、定政の兄の松平定行(伊予国松山藩)に預けられた。蟄居といえど定政には給米2千俵を与えられていたため、貧困していたような状態ではなかった。
寛文12年(1672年)に父が死去した後に江戸に召し返され、給米2千俵のうち1千500俵を与えられて寄合に列した。[4]元禄10年(1697年)に下野国安蘇郡で知行地1千500石を与えられ、異母兄・定澄と共に定政系の旗本久松松平家として存続した。
脚注
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