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松殿基嗣
鎌倉時代の公卿 ウィキペディアから
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松殿 基嗣(まつどの もとつぐ、建久3年(1193年) - 没年不明)は、鎌倉時代の公卿。摂政・松殿師家の息子。主な官位は正二位、権大納言。
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経歴
建久3年1193年に松殿師家の息子として生まれる。基嗣は有力な後継者ではあったが摂政、関白に成らず、最終官位は正二位・権大納言であった。[1]広橋経光の記載によれば、寛喜4年(1232年)3月16日、基嗣は平光盛の娘で、邦子内親王(守貞親王の皇女)に仕える女房が日吉社に参詣するのを途中で待ち伏せて、数騎の軍勢で取り囲み、彼女を連れ去るという蛮行を起こし、権大納言を解任されたのである。このとき、父松殿師家は天王寺の別荘から急ぎ上洛して謝罪したが、九条道家は「一門之恥辱唯在此事」であるとして許さなかった。結果、基嗣とその子孫は、二度と公卿に戻ることなかった[2]。父の師家も同年に出家している。その後、仁治4年(1242年)に出家[1]した。
官歴
系譜
藤原隆房の娘 | 師家 | ||||||||||||||||||||||||||||
平光盛の娘 | 基嗣 | 実嗣 | |||||||||||||||||||||||||||
基定 | 乗基 | ||||||||||||||||||||||||||||
脚注
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