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従四位
日本の位階、神階のひとつ ウィキペディアから
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従四位(じゅしい)とは、日本の位階および神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。
解説
要約
視点
律令制下において従四位は上下に分けられ、勲等では勲四等に相当し、官位相当では従四位上が太政官の左右大弁、従四位下が職における大夫、近衛府の中将、検非違使別当、蔵人頭、京職の大夫など朝廷内の行政を司る京官の長官ないし次官相当の官職がこの位階に相当していた。また従四位は議政官である参議に任官しうる位階であり、任官された場合には公卿に列することができた。
従四位下以上、正四位上の有位者で公卿に列していないものについては、その者の敬称は氏および諱の下に朝臣を付ける、名乗り朝臣が基本である。例として「細川右京大夫従四位下源勝元朝臣」など。
五位および四位を通貴、三位以上を貴とする律令制下においては、五位には文武官が功労によって昇り得たが、そこから四位に進めるのは特定の門閥貴族に限定され、それ以外の者は特別な功労を上げた者だけが例外的に四位に上れることになっていた。特に神亀5年3月28日(728年5月11日)の格によって外位に振り分けられた氏族は四位以上に昇進することは事実上不可能になった[1]。
その後は藤原氏傍系にあたる者や非藤原氏の中級貴族に多かった。武門の棟梁である清和源氏、桓武平氏が従五位下を初叙とし正四位を以って極位とされた時代にあっては、嫡流でもいくばくかの武勲がなければ昇ることがなかった。
しかし、鎌倉時代以降となると鎌倉幕府成立以降、実力をつけて次々に政敵駆逐を果たした北条氏が幕府の執権職を掌握して以降は、北条氏の嫡流たる得宗が正四位上まで昇るようになり、北条氏一門や有力御家人が従四位下などの官位に昇るようになった。さらに、室町時代以降となると有力な守護大名も叙せられるようになっていった。特に三管領四職を務める足利一門や有力守護、或いは名門たる守護の家柄が従四位下に叙せられた。
戦国時代に入ると、そもそもは三管領細川氏の家臣で守護代の家柄であった三好氏が幕府相伴衆に列し従四位下に叙せられたのに伴い、その家臣である松永久秀も主家同様に従四位下に昇るなど家柄や身分によらず実力に応じた除目も行われるようになった。
室町幕府を滅ぼし天下人を目前に控えて横死した織田信長の後継として、豊臣秀吉が天下人となると、秀吉は関白に昇り、徳川家康や前田利家などの重臣が二位・三位に叙せられる、従四位はその嫡子をはじめ子弟の位階として発令されるようになる。
さらに、家康が江戸幕府を開くと、家門大名や譜代大名のうち老中などの重役に昇る者、高家、外様大名のうち10万石以上の国主がこの位階に叙せられた。
→「四品以上に昇進する大名家一覧」を参照
19世紀の文政年間に出版された『江戸名所図会』では、享保13年(1728年)、8代将軍徳川吉宗に献上するために広南(ベトナム)から連れてこられたゾウに、「従四位」の位が授けられ、「従四位広南白象」と称されたとされる。この叙位は中御門天皇に拝謁するにあたり、無位無官の者(ゾウ)には宮中への参内が許されないためとしているが、同時代の資料には叙位についての記載はなく、記述を疑問視する意見がある[2]。
明治時代には、従四位は華族の爵位では男爵の初叙位階に相当し、陸軍・海軍では中将相当とされた他、叙位条例にて、勅授の対象となり華族に準ずる礼遇として位置づけられた[注釈 1]。
現在は功績のある物故者に位階が発令されており、公務員として功績のある者や、旭日中綬章など(旧勲三等)を受けた芸術家、学術研究に功績のある学者、芸能・文化活動に功績のある芸能人などが叙せられている。
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鎌倉時代
従四位上
従四位下
室町時代
従四位下
戦国時代
従四位上
従四位下
維新後贈位者
- 1869年(明治2年)6月5日[3] - 戸田忠恕(贈従四位上)
- 1870年(明治3年)10月5日[3] - 中山忠光
- 1883年(明治16年)8月6日[4] - 児島範長
- 1885年(明治18年)3月6日[4]
- 1891年(明治24年)11月16日[5] - 二宮尊徳
- 1891年(明治24年)12月17日[6]
- 裏松光世、岩倉尚具、町尻説望、成就院信海、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、桜任蔵、勝野正道(豊作)、関鉄之介、田丸稲之衛門、藤田小四郎、斎藤留次郎、吉田稔麿、杉山松助、河上弥市、来原良蔵、船越清蔵、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、橋口伝蔵、弟子丸龍助、田中謙助、西田直五郎、森山新五左衛門、是枝柳右衛門、森山新蔵、山本四郎、美玉三平、川瀬太宰、豊島泰盛、飯田忠彦(左馬)、伴林光平、丹羽正雄、宇喜多一蕙、藤森弘庵(恭助)、大橋訥庵(順蔵)、大久保要、藤本鉄石(津之助)、松本奎堂(謙三郎)、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太、那須信吾、安岡嘉助、清岡道之助、松山深蔵、千屋菊次郎、北添佶摩、多田弥太郎、河合宗元(惣兵衛)、松田重助、中村円太、松林飯山(廉之助)、田村貞彦(復斎)、伊丹造酒之助、広田精一、渋谷伊予作、津崎矩子(村岡)
- 1896年(明治29年)5月20日[7]
- 1896年(明治29年)9月19日[7] - 稲田植誠
- 1896年(明治29年)10月30日[8] - 日下義雄
- 1897年(明治30年)4月21日[9]
- 1898年(明治31年)7月4日[10]
- 1898年(明治31年)10月25日[11]
- 今田唯一、榊原忠誠、花岡正貞、半田隆時、田上覚
- 1900年(明治33年)7月16日[12] - 浅田宗伯
- 1902年(明治35年)11月8日[13]
- 1903年(明治36年)11月13日[14]
- 1904年(明治37年)3月2日[15] - 山中幹
- 1907年(明治40年)5月27日[16]
- 1907年(明治40年)10月23日[17]
- 1907年(明治40年)11月15日[18]
- 1908年(明治41年)9月9日[19]
- 1908年(明治41年)11月13日[19] - 森田節斎(謙蔵)
- 1909年(明治42年)4月17日[19] - 小野蘭山
- 1909年(明治42年)6月8日[20] - 緒方洪庵
- 1909年(明治42年)8月25日[20] - 頼杏坪(万四郎)
- 1909年(明治42年)9月11日[20]
- 1910年(明治43年)11月16日[21]
- 1910年(明治43年)12月1日[21] - 浅見絅斎
- 1911年(明治44年)6月1日[22]
- 1911年(明治44年)11月15日[23]
- 1912年(明治45年)2月26日[24]
- 1912年(大正元年)11月19日[25]
- 1913年(大正2年)11月17日[25]
- 1914年(大正3年)11月19日[25] - 中井履軒(徳二)
- 1915年(大正4年)3月19日[26] - 頼春水(弥太郎)
- 1915年(大正4年)10月24日[26] - 津軽信明
- 1915年(大正4年)11月10日[27]
- 伊達邦成、井伊道政、秋月種殷、長谷川作十郎(清)、仁科盛遠、大蔵種材、少弐資時、宗貞茂、田中定清、楠木正元、勅使河原直重、大舘宗氏、村上義隆、香坂高宗、南部信政、瓜生保、阿蘇惟成、相知蓮賀、気比斉晴、忽那義範、山田長政、島津久本、服部平右衛門、宜湾朝保、細川忠顕、宍戸親基、北村季吟(久助)、谷川士清、荷田在満(東之助)、伴蒿蹊(庄右衛門)、谷時中(三郎右衛門)、伊藤東涯(源蔵)、中村惕斎(仲次郎)、人見懋斎(又左衛門)、山県周南(少介)、安藤抱琴(内匠)、皆川淇園、林述斎(衡)、古賀精里(弥助)、尾藤二洲(孝肇)、菅茶山(太中)、佐藤一斎(捨蔵)、安積艮斎(祐助)、藤沢東畡(昌蔵)、安井息軒(衡)、池田草庵(禎蔵)、新島襄、伊東玄朴、佐藤泰然、小泉八雲、榊原新左衛門、鈴木縫殿(重義)、有元佐弘、有元佐光、大国隆正、田口卯吉
- 1916年(大正5年)4月11日[28]
- 1916年(大正5年)8月3日[28] - 岡田寒泉(清助)
- 1916年(大正5年)11月15日[28]
- 1916年(大正5年)12月28日[29]
- 1917年(大正6年)5月15日[30] - 蜂須賀家政
- 1917年(大正6年)11月17日[31]
- 岩垣東園(松苗)、竹原八郎
- 1918年(大正7年)11月18日[32]
- 1919年(大正8年)11月15日[33]
- 1923年(大正12年)10月30日[34]
- 1924年(大正13年)2月11日[35]
- 1928年(昭和3年)11月10日[36]
- 1931年(昭和6年)10月20日[37]
- 草野経永、白石通泰
- 1935年(昭和10年)12月6日[38] - 三宅友信
- 1936年(昭和11年)6月3日[38] - 中川淳庵
- 1943年 (昭和20年)12月14日 永地秀太
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日本国憲法施行後に従四位に叙せられた主な人物
- 氏名表記は官報記載に則る。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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