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栗橋丸
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栗橋丸[3] (くりはしまる) は日本海軍の救難船兼曳船[1]。 1920年に栗橋と改名した[8]。
元は1897年製造のスウェーデン船籍「ヘラクレス (Heracles) 」[5]。 日露戦争時 (1905年) に購入[7]、 旅順の沈船救難などに活躍した[13]。 太平洋戦争後は復員輸送を行った後、1950年まで海上保安大学校の練習船に使用、50年以上役務に就いた[1]。
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艦型
- 機関
主機は3段3筒レシプロで直径は高圧20 in (508 mm)、中圧32 in (813 mm)、低圧51 in (1,295 mm)、行程30 in (762 mm)[11]。 蒸気圧力は180 psi (13 kg/cm2)[11]。
- 救難設備
搭載、設置した排水用機器は以下の通り[14]。
- 固定遠心ポンプ 1台 : 直径18 in (457 mm)。能力は2,500トン/h。機械室に設置。
- 電動移動遠心ポンプ 2台 : 直径12 in (305 mm)。能力は2台で2,400トン/h。150馬力発電機を機械室に設置、電源ケーブルの長さは0.5英海里 (930 m)。
- 蒸気式移動遠心ポンプ 2台 : 直径12 in (305 mm)。能力は2台で2,000トン/h。
- 蒸気式移動ピストンポンプ 1台 : ピストンの直径12 in (305 mm)。能力は500トン/h。
- 移動ボイラー 1基 : ポンプへの蒸気供給用。
- ホース : 内径5 in (127 mm)、長さ3,000 ft (914 m)。
総排水能力は1時間当たり約6,000トン[注釈 2]。 その他に救難用ロープ各種や潜水器7組 (人力送気3組、圧縮空気使用4組) なども搭載した[15]。
- 端艇
- 1917年 (大正6年) : 22 ft (6.7 m)カッターを23 ft (7.0 m)通船に交換した[16]。
- 1918年 (大正7年) : 26 ft 6 in (8.1 m)汽艇は機関老朽化のため20 ft (6.1 m)内火艇と交換した[17]。
- その他
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艦歴
要約
視点
購入
日露戦争において沈没船引き揚げに救難船が必要とされた[19]。 そこで、臨時軍事費予算を使用し[19]、 横浜にあるジャーデン・マゼソン商会[20]の仲介により購入した[21]。 1905年 (明治38年) 2月19日に購入契約を結び、5月17日に長崎港で受領[6]。 同日佐世保軍港に回航し佐世保海軍工廠で必要な艤装を行った[6]。 5月22日に「栗橋丸」と命名、本籍を佐世保鎮守府とした[3]。
旅順派遣
同1905年6月15日に宇久島を出発[8]、 旅順で沈没船救難を行った[13]。
「栗橋丸」は翌1906年 (明治39年) 6月5日に佐世保に帰港した[8]。 8月6日付で「栗橋丸」の所属は横須賀海軍港務部附属に変更[4]。 同月11日に佐世保鎮守府から横須賀鎮守府へ引き渡された[22]。
1907年 (明治40年) 7月4日に竹敷を出港し旅順に向かい、同月29日に竹敷に帰国した[8]。
1909年 (明治42年) 4月24日付で、海況の穏やかな5月から6月に運貨船2隻を曳航して大湊まで回航するよう、訓令が出された[23]。 また7月10日に舞鶴を出港し旅順に向かい、8月6日に舞鶴に帰国した[8]。
1910年 (明治43年) 6月30日に横須賀を出港し (呉に寄港し7月4日出港[24]) 7月8日旅順着、7月11日に松樹山丸を護衛して同地を出港し7月20日徳山港に帰国、7月26日横須賀に帰港した[25]。(『恩給叙勲年加算調査』によると7月17日に竹敷に帰国した[24]。)
浪速遭難
実験協力
沿海州派遣
同1920年 6月23日に間宮海峡での沈船除去の訓令を受け[28]、 「栗橋丸」は6月26日午前9時に横須賀を出港した[29]。 28日から29日に函館港に寄港[30]、 30日には小樽をに到着した[31]。 7月1日付で「栗橋」と改名した[8]。 同日「栗橋」は小樽を出港、沿海州方面へ向かい[24]、 7月4日デカストリ湾ウーストリチヌイ島に到着した[32]。 7月8日にサバフ角に移動[33]、 翌9日から同地で沈船除去作業を実施した[34]。 8月11日に「栗橋」の作業打ち切り、舟艇の回航が命令された[35]。 19日に亜港に向けて同地を出港した[36]。 「栗橋」は10月15日に小樽に帰国した[24]。
1921年 (大正10年) 「栗橋」に沿海州方面の行動のため、臨時海軍工作班[注釈 4]用の工事が行われ[37]、 「栗橋」は5月15日に小樽を出港して沿海州方面で行動し、10月29日に小樽に帰国した[24]。
1922年 (大正11年) 5月から6月に第六戦隊第一小隊が北方方面に行動するのに合わせ[38]、 「栗橋」は横須賀を出港して小樽経由 (5月23日小樽出港[24]) で亜港へ移動、同地で炭水糧食の補充を第一小隊に行った[39]。 「栗橋」は10月23日小樽に帰国した[24]。
1923年 (大正12年) 5月に横須賀を出港し小樽経由 (5月23日小樽出港[24]) で亜港に進出[40]、 同地にいる臨時海軍防備隊へ補給を行った[41]。 また同時に沿海州方面の水路補測を行った[42]。 「栗橋」は7月30日小樽に帰国した[24]。 8月2日に小樽を出港、8月15日大泊港に一時帰国、8月20日に小樽を出港した[24]。 9月17日に「栗橋」は間宮海峡を出発し、漂流人救出任務を行った[注釈 5]。 「栗橋」は10月19日に小樽へ帰国した[24]。
1924年 (大正13年) 5月21日に「栗橋」は小樽を出港、6月22日稚内港に寄港し翌23日出港、8月14日大泊に帰国した[24]。 8月21日に真岡を出港、10月17日小樽に帰国した[24]。
改装
太平洋戦争
1942年 (昭和17年) 1月7日、神子元灯台の沖で雷撃を受けた第1雲海丸の救難に「沢風」などと共に向かう[43]など、太平洋戦争中でも救難任務を行った。
戦後
戦後は復員船となり、復員輸送を行った[1]。 1946年 (昭和21年) 1月20日に特別輸送船(復員船)の任を解かれた[44]。 4月25日に再度、特別輸送船をされて横須賀地方復員局の所管とされ[45]、 12月15日に特別輸送船の任を解かれた[46] その後は長浦港に停泊[1]、 1948年 (昭和23年) に海上保安庁が発足し同船は海上保安大学校の練習船となり[1]、 1950年 (昭和25年) に解役された[1]。
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艦船符号
信号符字
旗旒信号等で使用する。
- GQSD : 1905年5月22日[47] -
呼出符号
脚注
参考文献
関連項目
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